主に委ねて生きる強さ

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聖書の言葉

あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

旧約聖書 イザヤ書 46章3,4節

赤石めぐみによるメッセージ

この春、アルベール・カミュの『ペスト』を恥ずかしながら初めて読みました。遅かったかもしれませんが、でもこのタイミングで読んだのには意味があったかな、と思います。緊急事態宣言下でしたから、まるで今のことを読んでいるかのような心境になりました。読みながらいろいろなことを考えさせられましたが、中でも懸命にペスト患者と向き合う医者のリウーの言葉には長く問われ続けました。教会でパヌルー神父が「反省すべき時が来たのです」という内容の説教をしたのを聞いたあとの会話です。

「神を信じていますか、あなたは?」とタルーに聞かれて、リウーは「信じていません。[…]パヌルーは書斎の人間です。人の死ぬところを十分見たことがないんです。だから、真理の名において語ったりするんですよ。しかし、どんなつまらない田舎の牧師でも、ちゃんと教区の人々に接触して、臨終の人間の息の音を聞いたことのあるものなら、私と同じように考えますよ。その悲惨のすぐれたゆえんを証明しようとしたりする前に、まずその手当てをするでしょう」と答えます。タルーに「なぜ、あなた自身は、そんなに献身的にやるんですか、神を信じていないと言われるのに?」と聞かれると、リウーはこう言いました。「もし自分が全能の神というものを信じていたら、人々を治療することはやめて、そんな心配はそうなれば神に任せてしまうだろう」。

クリスチャンは「委ねる」という言葉をよく使います。どうにも解決しがたい悩みを話したあと、たいてい「主にお委ねしていきましょう」と言って励まし合ったりします。リウーの言葉を読んだとき、リウーのように現場で一生懸命問題に取り組んでいる人たちからすると、「書斎の人間(机上でものを考えている人間)」で、現場を知らないからそんなことを言うんだ、だからクリスチャンが「全能の神さまにお委ねしましょう」と言っているのは、安易に聞こえるのかもしれないな…と、ビクッとさせられたのです。全能の神を信じて委ねることは、現実から逃げることなのでしょうか?決してそうではない!それをどう伝えることができるか。それをこの数ヶ月、わたしはずっと心に問い続けてきました。

そんな中、私たちの教会で行っているゴスペル教室で”You Raise Me Up”という曲を習いました。この4月、レーナ・マリアさんのソロの後ろで百人の仲間と一緒に歌わせていただく予定でしたが、キャンセルになってしまいました。ネットで調べると、日本語では「この曲はラブソングで、人それぞれのyouがいることと思う」と記されている記事が多いです。しかし、歌詞全体を読むと、この歌で歌われているYouは全能の神さまだとピタッとするなあと思いますし、クリスチャンであるレーナさんもそのおつもりで歌っていらっしゃいます。

このようなことが歌われています。

「わたしが落ち込んで、魂がすっかり弱っているとき

試練が襲って、わたしの心が重く苦しんでいるとき

わたしは沈黙して、ここでじっと待ちます

あなたが来て、しばしの時、わたしと一緒に座ってくださるのを。

あなたはわたしを立ち上がらせ、引き上げてくださる

だから、わたしはどんな険しい山の上にも立つことができる

あなたはわたしを立ち上がらせ、引き上げてくださる

だから、嵐の海の上をも沈まずに歩くことができる

あなたの肩に担われているとき、わたしは強い

あなたは、わたしが思う以上にわたしを立ち上がらせ、引き上げてくださる」

この歌詞を読んでいるといろいろな聖書の言葉が思い出されます。この中の「あなたの肩に担われているとき、わたしは強い」“I am strong when I am on Your shoulders”という一文は、冒頭で読んだイザヤ書の言葉「わたしは(あなたを)白髪になるまで背負って行こう。わたしが担い、背負い、救い出す」と神さまがおっしゃっていることを踏まえているな、と思いました。

私たちは医者のリウーのように現場で一生懸命、自分のなすべきことをします。一人でがんばっているように感じてしまいますが、それは決して自分ひとりの戦いではない…。神さまが背負ってくださっている。それは、たとえがおかしいかもしれませんが、昔運動会でやった騎馬戦のように、父・子・聖霊なる三位一体の神さまが私たちをご自分に乗せてくださっていて、私たちはその上で戦っている、というイメージです。日本語でも「大船に乗った気持ちで」という表現がありますが、私たちはイエスさまが乗ってくださっている船の上にいますので、嵐も恐るるに足りないものと思えるようになるのです。リウーが言ったみたいに、全能の神というものを信じたら、すべてその神にお任せして自分は何もしなくなるだろう、というのではなくて、全能の神を信じるからこそ、私たちはそれぞれの持ち場で自分のなすべきことを、恐れなく存分にすることができるようになるのです。失敗を恐れることも、治療の甲斐なく死に直面して無力感を覚えることも、報われない思いにさいなまれることも少なくなってきます。

もし今、落ち込んですっかり弱っていらっしゃるなら、全能の神さまが(イエスさまが)、あなたのそば近くに来て、しばしの時、一緒に座ってくださいますように。そうして、私たちが思う以上の力で悩みの淵から引き上げられ、立ち上がることができますように。

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