塵に過ぎない

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聖書の言葉

父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくださる。主はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを御心に留めておられる。

旧約聖書 詩編 103編13,14節

李在永によるメッセージ

私には4歳と6歳の子供がいます。子供たちを育てながら改めて感じることですが、子供向けの絵本や映画、アニメの内容にはお姫様や王子様、ヒーローが主人公であることが多いですね。しかも主人公たちは大体とてもきれいで、かっこいいし性格も優しく勇ましいです。そのような物語の主人公に子供たちは憧れます。「雪の女王」のエルサが好き、アンパンマンのようになりたい等、子供たちは自然に自分の未来のイメージをこのような素敵で格好いいと思う何かに投影します。

しかし、悲しく聞こえるかもしれませんが、考えてみれば、大人になるということは、このような自分の憧れのイメージがどんどん破られ、現実の自分に気付くことではないかと思います。もちろん憧れの人生や夢見た自分を実現し、素敵で素晴らしい人になる人も沢山います。自分の理想を実現するため、夢を叶うため、頑張って、頑張って、それを成し遂げた時の幸せとは人生一番の幸でしょう。しかし、そのような輝かしい時も長続きしません。物語の中の素敵な王子様と結婚したお姫様であっても、その人生が幸せだとは限りません。人々を助け、救うヒーローにもつらく悲しいことは沢山あります。立派な政治家、おしゃれで人気のある芸能人、成績のいいスポーツ選手等、人々に憧れられる人生であっても、その栄光は永遠に続くことなく、いずれ消え失せます。何よりも、人生の終わり、死を前にすると私たち人間のだれもが人生の儚さを覚えるでしょう。私たちは大きくなるにつれ、自分がそこまで大した人ではないことに気付きます。

聖書では私たち人間が神様によって土の塵から造られたと記されています。聖書によると人間の本質は塵であり、造られた存在、受け身的な存在であります。親に育てられる子供のように、神様によって養われ、導かれ、教えられ、従わされる存在です。

しかし、聖書はまた語ります。人類はこのように神様によって造られた存在であることを拒み、自分が神のようになろうとする本性があることを。創造主なる神に逆らい、拒み、ついには、神はいないと否定してしまうのが、私たち人間であり、神を否定し、自分が神のようになろうとするすべての試みが罪であることを教えています。

自分が塵に過ぎないことを認めたくない心がこの世の中の罪と悪を招きました。神によって造られた存在でなく、神のようになろうとして人間は罪を犯しました。人間は自分の限界と弱さを認めたくありません。何か素晴らしい存在になろうともがきます。お金をたくさん持てば、有名になれば、格好良くなれば、人々にほめられれば、より優れた存在になれると思っています。何かきれいなもので自分を飾ろうとします。力で、お金で、名誉で、人気で、知識で塵のような自分の存在を隠そうとします。そのために、他の人のものを奪ったり、人を妬んだり、憎んだりもします。自分より弱い人、貧しい人、小さい人を無視したり、いじめたりします。自分の悪さを隠すため嘘もつきます。人を殺したりもします。

何てかわいそうでしょう。自分が塵に過ぎないのに、それを隠そうとすることで、飾ろうとすることで、逃げようとすることで、益々、悪いことをしてしまいます。私たちは造られたものではないと嘘をつきます。神様はいないと言ってしまいます。

皆さんはどうでしょうか。私たちの存在、人生が塵にすぎないことを認めることができるのでしょうか。いくら素晴らしく、立派で、人々からほめられる人生であっても、また自分から見ても幸せで、満足できる人生の歩みであったとしても、その栄光は咲いた花のように、いずれ消え失せ、生えていたところさせも忘れられてしまうということを受け入れることができるでしょうか。

しかし神様はこのような私たちをも愛してくださいます。私たち自身も嫌で嫌で、恥ずかしくてしょうがない、自分の弱さと罪を神様は赦してくださり、憐れんでくださいます。

なぜなら神様は私たち人間が塵に過ぎないことをご存知であるからです。神様は私たちの偉いところ、素敵なところを愛されるのではありません。私たちが賢いから、力があるから、人々にやさしいから、愛してくださるのではありません。神様は塵に過ぎない私たち人間をそのまま愛してくださいます。埃のような、塵に過ぎない私たちの限界、小ささ、弱さを心にとめておられます。神様は今日も私たちをその御心にとめておられます。弱く小さい塵のような私たちが永遠の命と愛の源であられる神様に立ち返り、神様により頼むことを待っておられます。

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