薔薇の内部にふさわしい外部

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聖書の言葉

三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 21章17節

宇野元によるメッセージ

詩人リルケといえば薔薇。庭でばらの世話をしているときに、指を傷つけ、それが死の原因になった。そんな伝説のような話も、この詩人を薔薇と結びつけています。彼は、亡くなるとき、遺書に 薔薇の詩を書いて、自分の墓に刻むよう指示しています。

リルケは、告白的な詩人ではなく、作品のうしろに控える。ことさら自分の人生を語るのではなく、作品の中に込める。どちらかと言えば、そちらのタイプに数えられるでしょう。とくに、北ドイツからパリに出て、彫刻家ロダンに学び、セザンヌや、クレーの絵に親しんでいた頃のものに、そうした厳しい姿勢を感じますが、それでもやはり、作品には、おのずから折々の心の状況が映されます。駆け出しの頃から作りつづけた、薔薇の詩は、この意味で、彼の心の記録、魂の日記のような面も持っているように思います。

「きょう、お前のために、薔薇を味わおう。」そんな詩があります。

ながいこと、気を散らしていた。薔薇を味わうことも忘れて。きょうは、いつもの自分に戻ろう。お前のために。

————そう自分自身に語りかけているのでしょう。庭に出て、薔薇を見てまわる。いくつか選ぶ。器に生けて、テーブルに置く。そんな、つつましい、小さな幸せ、豊かな時間を大切に過ごそう。いろいろなことからしばし離れて、自分をひらいて、静かに薔薇を味わおう。すぐ近くにある、えもいわれぬ豊かさを味わおう。

すべての花冠は満ち花びらは

幾百回となく自分自身の中にある

谷がぎっしり詰まった谷のように

自らの中にあり重みを湛えている

今からおよそ100年前。リルケが生きた時代は、現代のばら、いわゆるモダン・ローズが、次々に世に現われた、そのはじまりの時代でした。それ以前の薔薇もまだ現役で、生まれたばかりの新しい品種も、昔の薔薇の面影をよく残していました。このころの薔薇は、現代の薔薇にくらべて、華奢な印象があり、繊細な美しさにあふれています。花首がほそくて、花びらの重ねが多い花は、うつむきがちに、風にゆれて、やさしく咲きます。

幾重にも重なりあう、きわめて繊細な薔薇は、私たちの心の痛みの象徴ともなります。「薔薇の内部」という詩は、薔薇の花を、私たちの痛みのかたちにみたてています。

どこにあるのか

この内部にふさわしい外部は?

どんな痛みにそのような亜麻布は当てられるのか?

イエス・キリストにある恵み。それは私たちの心の襞にこまやかにふれ、隈なく覆います。

朝の光が横溢するガリラヤ湖畔。復活のイエスが、シモン・ペトロと再会してくれます。にわとりが鳴くまえに、ペトロはイエスを三度否定していました。「あの男のことなど、知りません。」

ペトロはそれまで、自分には力があると思っていました。そしてイエスの一番弟子を自認していました。イエスの横にいて、自分を誇らしく思っていた。いい気になっていた。「先生、それはダメです」などと、知ったふうなことを言った。「先生、あなたのためなら命を捨てます」と口走った。思い上がっていた。愚かだった。

……大きな負い目に押しつぶされていました。まぶしい明るい光の中で、共に食事する、そのときも、押し黙っていた。

そんな彼に、イエスが語りかけます。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」親しくペトロの名を呼んで、そうたずねます。ペトロの心の痛みにやさしく触れるように。そしてこの問いを、三度、くり返します。三度、イエスを否定した。それに正確に重ねるように。傷ついた心の襞を、すき間なくおおうように。やわらかい亜麻布を当てるように。

「わたしを愛しているか。」

ペトロはもう、こう答えるよりほかにしようがない。「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを。」

こわれやすい弟子の愛に、くりかえし、イエスの愛が当てられます。

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