主の祈り 2

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聖書の言葉

「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。」

新約聖書 マタイによる福音書 6章9節

吉田謙によるメッセージ

今日は「主の祈り」の最初の願い、「御名(みな)が崇(あが)められますように」という祈りについて学びたいと思っています。

この「御名」というのは、父なる神様の名前のことです。当時、ユダヤでは名前が非常に重んじられていました。「名は体をあらわす」という日本の諺がありますけれども、ユダヤ人たちにも同じ様な考え方があったわけです。そういうわけで、この「御名」というのも、ただ単なる父なる神様の名前ということではなくて、父なる神様の存在そのもののことを言い表していたわけです。つまり「御名が崇められますように」というのは、「神様の素晴らしさ、神様の栄光が現れて、神様が誉めたたえられますように」という祈りなのです。

ここで私たちが注意しなければならないことは、これは祈りであるということです。これは「わたしは神様の栄光をあらわします」という決意表明ではありません。そうではなくて、自分自身の無力さを自覚しつつ、「どうぞ、この私があなたの栄光をあらわすことが出来ますように」と神様に祈ることなのです。

私は、牧師ですから、毎週、日曜日に語るメッセージの準備をいたします。その準備をしながら、時々、鳥肌が立つほどに、あるいは涙が溢れてくるほどに、神様の素晴らしさに感動することがあります。それをそのまんまに伝えることが出来たらいいんですけれども、しかし、なかなか、そううまくはいきません。いざ、その感動を言葉に表そうとすると、急にその神様の素晴らしさが色あせてしまうのです。しぼんでしまう。「神様の愛は、本当はもっと素晴らしいはずなのに、どうしてそれをうまく伝えることが出来ないのだろうか」本当に歯がゆいのであります。そういう時に私は、「御名が崇められますように。神様どうぞ、あなたの素晴らしさをあなた御自身が現して下さい。神様の愛が割り引かれることなく、この私が語るメッセージを通して、会衆の一人一人に届きますように」と祈るのです。こういう思いというのは、決して私だけのことではないと思います。私たちが神様の愛や恵みを人に伝えようとする時に、私たちは自分の限界を思い知らされます。教会学校の教師であるならば、もう毎週、そういう限界を思い知らされていると思うんですね。自分は神様のことがここまで分かっているのに、それをどうしても子供たちにうまく伝えることが出来ない。あるいは、家族や友人の救いを願う時に、私たちは自分の無力さを本当に痛感させられます。神様の栄光を伝えるという面で、私たちは本当に無力なのです。

クリスチャン作家の三浦綾子さんは、自分が信仰の決心がつかなかった時のことを、彼女の作品の中で語っておられます。彼女には、一所懸命、信仰を勧めてくれる友人がいました。その友人と一緒に河原で話をしていた時に、いっこうにふてぶてしい態度を改めない彼女を見て、その友人は「どうして、彼女に神様のことが伝わらないのだろうか。自分はなんて無力なんだ」こう嘆いて、泣きながら河原の石で自らの足を打ち叩いた、と言われています。私たちも、家族や友人の救いを願って、御言葉を伝えようとする時に、やっぱりこの人と同じような空しさを覚えることがあるのではないかと思います。こんなに素晴らしい神様がいらっしゃるのに、自分にはそれをうまく伝える力がない。自分の無力さが恨めしいのです。「御名が崇められますように」という祈りは、そういう無力さを知っている人間の祈りです。「神様、きよい御名を崇めます。あなたの栄光を私が現してみせます」というのではなくて、「どうぞ私があなたの栄光を表すことが出来ますように」と切に祈るのです。

この「主の祈り」は、それ自体で福音なのだ、それ自体が良い知らせである、とよく言われたりします。本当に嬉しいことにイエス様は、この神様の栄光を現すとことについても、私たちが祈ってよいのだ、と許して下さいました。力が乏しく、なかなか思うように神様の栄光を現すことが出来ない私たちです。伝道することにおいても、真の礼拝を捧げることにおいても、あるいは善き行いによって神様の栄光を表すことにおいても、本当に力のない私たちであります。そういう私たちに対して、神様は「何が何でもやってみよ!」と命じられるのではなくて、「このことについても、あなた方は祈るように」と励まして下さいます。この「主の祈り」の福音に励まされながら、神様の栄光を現すということについても、決して諦めることなく、神様に頼りながら真剣に祈り求めていきたいと思います。

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