主は真のぶどうの木

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聖書の言葉

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 15章1~11節

金度亨によるメッセージ

タルムードに、このような話が出てきます、体は一つであるが、頭が二つの人です。一人でしょうか?二人でしょうか?タルムードでは、熱いお湯を一つの頭に注ぐ時、他の頭が同じく苦しみを感じたら、一つの体であり、一方の頭のみ、苦しみを感じたら、別々の二人であると紹介しています。何を言おうとしているのでしょうか?兄弟が苦しんでいるのに、その苦しみを分かち合うことができなければ、同じ兄弟、同じ民族とは言えないということです。

今日の本文でも同じ話が出てきます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(5節)

ぶどうの木である主イエスとその枝である弟子たちが一つの体としてつながっているということです。二つの頭が同じく苦しみを感じている一人のように、ぶどうの木はイエスさまで、その枝は弟子たちですから、どんな状況であっても、いつでも、一つであるということです。

実は、このヨハネによる福音書が書かれた時代は、ローマの皇帝であったドミティアヌスによって、多くのクリスチャンたちは迫害を受け、苦しみながら、殺されていきました。苦しんでいるクリスチャンたちのために、使徒ヨハネが今日の聖書を記録したのです。なぜでしょうか?そうです、主イエスはいつまでも、苦しんでいる人たちと一つの体として、彼らと共に自分の苦しみとして共におられるということです。私たちも、苦しんでいるときに、誰かがただ横にいてくれるだけで、大きな励ましになる時があります。今がその時かもしれません。

ぶどうの木という表現は、神に逆らうユダヤ人が神に責められる時によく用いられる言葉でした。イザヤ書5章4節に、神は「わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか」と責めておられます。エジプトで奴隷として、ピラミッドなどを建設しながら、悲惨に死んでいったイスラエル民族を、神の民として一方的に選び、乳と蜜の流れる、今のパレスチナに導き入れたのに、彼らは神の御言葉に殆ど従おうとしませんでした。おそらくユダヤ人は今も、もし「あなたはぶどうの木ではないか」と言われたら、すぐ、神の呪いを思い出して、怒るかもしれません。

しかし、主イエスが自らぶどうの木であるとおっしゃいました。変ですね。しかし、よく聞いてください。イエスさまは、15章1節で「わたしはまことのぶどうの木」と、「まことのぶどうの木」であることを強調されています。神に責められたぶどうの木、即ち、今も自分たちが神に選ばれている選民であると主張するユダヤ人を象徴するそのぶどうの木ではありません。新しく神に選ばれた真の神の民である、全く新しい真のぶどうの木であります。新しい真の神の民になるその基準が5節にかかれています。「イエス・キリストにつながっているか、つながっていないか」だけなんです。イエスにつながっていることだけです。人間側からの条件はないんです。当時のギリシア人であれ、ローマ人であれ、ユダヤ人であれ、今も日本人であれ、韓国人であれ、中国人であれ、ただ主イエスにつながっているだけで、神に選ばれた真のぶどうの木、神の民であるということです。

主イエスは、この話をされたのち、その夜、逮捕され、次の日には、私のような罪人の代わりに、自ら十字架の上で、苦しみを受けながら死んでいきます。私のような罪人とつながっている一つの体として感じておられたので、私の罪の報酬である死の苦しみを、ご自分の物として受け取ってくださったんですね。私が背負うべき十字架をです。

枝は地面から栄養を送ってくれるぶどうの木がなければ、枝自体は実を結ぶことが出来ません。それと同じように、私たちの自らの力で、クリスチャンの道を歩むこと自体が不可能です。そのような力はないんです。クリスチャンはひたすら、主イエスにつながっている以外は何の希望もないのです。

私は神学生の時、草刈りをしていて、電気のこぎりで、二つの指を切断してしまったことがありますが、およそ10時間かけて縫合手術を受け、指をくっつけたことがあります。落ちたのは、私の指だったのに、一か月間全く感覚もない、別のものでした。右の指5本の爪は、同じスピードで爪が伸びてきたのですが、けがした左の手の指5本の爪は一つも伸びませんでした。ところで、怪我した小指の爪が伸び始めると、一気に他の4本の指の爪が同じスピードで伸び始めました。おそらく小指のけがをいやすために、4本の指に送られるべき養分がすべて、小指に送られたのではないか感じました。

その時、私は強く感じました。これが教会共同体だ。教会共同体とは、主イエスにつながれていて、自分を犠牲にしながらも、他の兄弟姉妹を助けようとする存在である、と強く感じました。教会共同体は、イエスさまの十字架の血潮によってつながれている家族とも言えます。遺伝的な血筋によって構成された家族の絆を超える、主イエスにつながれている一つの体です。主イエスが昇天なさってからおよそ2000年が過ぎても、ヨハネは、この御言葉を通して今の時代を生きている私たちに伝えようとしているのです。

11節で「これらのことを、話したのは、わたしの喜びが、あなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」と言われています。今の苦しみの中でも、今の悲しみの中でも、ひたすら、主イエスが望んでおられるのは、私たちが喜びに満ち溢れることです。

どんな状況のなかでも、私たちに喜びを与えるために、ご自分につながっている枝であると声をかけてくださる主イエスの声が、御言葉を通して聞こえてくるように感じませんか。

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