聖書の言葉
神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
新約聖書 ヨハネの手紙一 4章9節
宇野元によるメッセージ
雨の中、道を歩いていると、ふと、おなじような雨の中、自転車をこぎながら、口笛を吹いた、少年の頃の気持ちを思いだすことがあります。その時の感じが、からだの中によみがえります。そんなときには、少しばかり、口笛を吹いてみます。
自転車をこぎながら、ちょっと口笛で演奏してみる。そうすると、なんとなく楽しくなる。自転車が軽快にすべるような気持ちがしたものです。
「明日に向かって撃て」という映画がありますね。それを見て覚えたのか?あちこちで耳にしているうちに覚えたのか?自然に心に入ったメロディーを、なぞりました。映画を見た方は思いだされるでしょう。主人公が自転車に乗る場面に、この歌が使われていますから、それをまねするところがあったでしょう。
「雨にぬれても」 この歌は、言葉も素晴らしいものです。とびとびですが、歌詞の一部を日本語にしてみました。
雨がしきりに降りかかるよ
まるで、ベッドから足がはみ出るようだよ
どれもこれも、しっくりいかない
……
でも、知っていることが一つあるよ
ふさぎの虫は、おいらを打ち負かせはしない
もうじき、幸せが挨拶しにくるんだから
……
泣き言をいって、雨をとめようなんて思わない
なぜって、おいらは自由だからさ
不安にさせるものはないよ
考えてみると、どうしてそうなってしまうのか?私たちの心が向かう方向がありますね。何かむつかしいことにぶつかる。問題が降りかかる。すると、悪い流れだ、さきゆきが悪いと思う。
そんな私たちの心の傾きに、立ち向かう。自分の心の流れを跳ね返す。軽快に。勇敢に。心の雪崩を塞き止める。私はこの曲にそんな魅力を感じます。ポール・ニューマンが演じた、快活で、へこたれない、明るい主人公の姿と重ねて。
むつかしいことにぶつかると、さきゆきが悪いと思う。
そう思うのは、ひとつには、私たちが自分の過去とともにあるからでしょう。このことをあらわす言葉は、なんとたくさんあることでしょう。それだけ、多くの人が感じざるをえない心の事実を証明していると思います。身から出たサビ。自業自得。因果応報。ばちが当たった。……どれも、私たちの心に染みる言葉ですね。それから、天罰、また、神罰といいますね。神を思い浮かべるとき、ちょうど、厳しい裁判官のように考える。そう考えるところから、悪い結果を予想してしまう。
また、こういうことがあるでしょう。さきゆきに不安になるのは、神を、気まぐれな権力者のようにイメージするところから来る。愛のない冷たい力、逆らえない力のもとに、置かれていると考える、私たち現代の人間の考え方がありますね。偶然を信じる。それは、冷たい、過酷なあり方です。別の言い方をすれば、神を、冷たい偶然の力のように考える。
聖書は、そんな私たちの心に語ってくれます。神は愛。私たちに思いを寄せる存在であると。そして裁きではなく、ゆるしを与える神。私たちに思いを寄せる存在が、私たちに付き添っていると。
冷たい雨が降りかかる。冬の寒さにこごえる私たちに、聖書が語りかけています。どこにあっても、歩み続けるように。へこたれないで。ふさぎの虫に負けないで。偶然ではなく、また必然でなく、神がいます。愛の神が。
イエス・キリストを見るように。その言葉。その歩み。その苦難と死をよく調べるように。その勝利を観察するように。裁きでなく、ゆるしが証しされています。命ある歩みが証しされています。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。」
心にとめさせられます。神の愛がイエス・キリストの事実のうちに証しされている。それは、私たちが生きるようになるため。
「雨がしきりに降りかかるよ。」けれども、望みをもって生きるよう誘われています。