教会ってどんなところ?②

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聖書の言葉

そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、 ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。

新約聖書 ルカによる福音書 6章12~16節

吉田実によるメッセージ

新しい年を迎えて2回目の日曜日の朝、皆様はいかがお過ごしでしょうか。この度は「キリスト教会とはどういうところなのか」ということについて、ただいまお読みいたしました聖書の個所から、続けてお話させていただいております。

ただいまお読みいたしました箇所には、イエス様が徹夜の祈りの後に12人の弟子たちを選ばれ、使徒と名付けられたということと、その使徒たちの名前が記されています。この使徒たちによって最初の教会の基礎が築かれました。従いまして、この12人の選びの中にすでに「キリスト教会とはどういうものか」ということについての大切な特徴が現れているのです。先週は、この12人の中には特別な訓練を受けたエリートのような人は一人もいなかったということについてお話をいたしましたけれども、次にこの12人を見て気付きますことは、そこには様々な違ったタイプの人々が集められていたということです。ペトロのように積極的で少々そそっかしい人もいれば、「疑うトマス」のような慎重派もいました。マタイは元徴税人でしたから、支配者であるローマ帝国の権威の下で異邦人たちと交わりながら生きていた「現実的・柔軟路線」に生きていた人と言えるでしょう。一方「熱心党のシモン」はローマに対する納税を拒否して武力行使も辞さないという「熱心党」に所属していた「過激派」でした。そういう色んな違いを持つ人たちが使徒として選ばれたのです。ですから、皆過去の仕事や生活を捨ててイエス様に従っていたとは言え、それぞれの性格や染みついた体質には大きな違いがあったと思います。

イエス様はそういう色んな違いを持つ人々を呼び集めて「使徒」とされました。そして教会は、そういう使徒たちによって基礎が築かれて行ったのです。ここに教会の大切な特徴があります。世の中では一般的に「類は友を呼ぶ」的な感覚で人が集うことが少なくありません。そしてそれはある意味で自然なことです。野球の好きな人たちが集まって草野球チームを作ったり、歌の好きな人たちが集まってコーラスグループを作ったりするのは自然なことですし、素敵なことです。けれども、人間の生き方そのものが「類は友を呼ぶ」的な傾向を帯びて行きますと、「排除の論理」に基づいて閉鎖的・排他的な集団になって行くに違いありません。そしてその行き着く先に「アパルトヘイト」や「ホロコースト」のような悲劇が生まれてしまったということは歴史の事実です。そしてそういう差別を生みやすい「類は友を呼ぶ」という感覚の根っこには「不安」があると思います。「異質な人」の存在は「不安」を生みます。何をするか分からないような人と一緒にいることは不安なことです。ですから、異質な人は排除して、似たような人たちとだけ繋がろうとするのです。けれどもイエス様は、教会の基礎を築く使徒たちを選ぶときに、色んな違いのある人たちを呼び集められました。そこに大切な意味があると思うのです。

聖書の神様は唯一の神様ですが、孤独な一人ぼっちの神様ではありません。「父」「子」「聖霊」という異なる三つのご人格が愛によって一つに結ばれて満ち足りていらっしゃる、そういう三位一体の神様です。そういう神様が人間をご自身に似た者として特別に「男と女」に造ってくださいました。ですから人間は最初から、違いのある者たちが愛し合って支え合って共に生きるように造られたのです。けれども人間は罪を犯し、神様から離れてしまったために、そのように生きることが出来なくなってしまいました。本当は一緒にいたいのに、一緒にいると傷つけ合ってしまう。「違い」が「争いの原因」になってしまうのです。そしてそんな「罪の問題」を根本的に解決するためにこの世に来て下さった神の子救い主、それがイエス・キリストなのです。従いましてキリスト教会は、このイエス・キリストを信じて、罪によって損なわれた神のかたちの回復を目指して、違いのある者たちが「共に生きる」共同体を形作るのです。たとえそこに様々な厄介なことが起こりましても、共に生きることを諦めない。なぜなら、誰かを排除した時に、神のかたちからはずれてしまうことを知っているからです。ここにあなたの本当の居場所があります。

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