教会ってどんなところ?①

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聖書の言葉

そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、 ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。

新約聖書 ルカによる福音書 6章12~16節

吉田実によるメッセージ

新しい年を迎えて最初の日曜日の朝、皆様はいかがお過ごしでしょうか。「ラジオはいつも聞いているけれども、まだ教会には通っていない」。そんな皆様は、今年こそ是非お近くのキリスト教会に足をお運びくださいますようにと、切に願っています。そこで今回は「キリスト教会とはどういうところなのか」ということについて、ただいまお読みいたしました聖書の個所から、続けてお話させていただきたいと願っています。

ただいまお読みいたしました箇所には、イエス様が徹夜の祈りの後に12人の弟子たちを選ばれ、使徒と名付けられたということと、その使徒たちの名前が記されています。この使徒たちによって最初の教会の基礎が築かれました。従いまして、この12人の選びの中にすでに「キリスト教会とはどういうものか」ということについての大切な特徴が現れているのです。その特徴をご一緒に確認していきたいと思います。まずこの使徒たちの名簿を見てわかりますことは、この12人の中には特別な訓練を受けたエリートのような人は一人もいなかったということです。皆どこにでもいる普通の人でした。使徒言行録の4章にはペトロとヨハネが堂々と証しをする様子を見て「二人が無学な普通の人であることを知って驚き」と書かれています。彼らは律法学者のように聖書を特別に学んだ専門家ではなくて、ガリラヤ湖で魚を取っていた漁師でした。

このことに「キリスト教会とはどういうところか」ということの一つの大切な特徴があると、私は思います。それはもちろん、「教会には特別なエリートのような人は入れない」ということではありません。教会には誰もが招かれています。教会の基礎を築いた12使徒たちの中に特別なエリートがいなかったということの意味は、キリスト教会は「人間の知恵や力」で建て上げられるものではなくて「神様の知恵と力」によって建て上げられるものなのだ、ということにあります。神様は人間の努力を用いてくださいますけれども、自分の知恵や力で何事かをなしとげ、そこに自分の栄光を現そうとする。そういう傲慢な人間の知恵や力は用いて下さらないのです。むしろ自分の罪深さ弱さを自覚して、ひたすら神様に頼る人。そういう人の弱さや小ささの中に、神様はご自身の知恵と力を現わしてくださいまして、御自身の栄光を現してくださるのです。つまりキリスト教会とは「神様の栄光」を共にほめたたえて神様を礼拝するところなのであって、特定の人間がほめたたえられて栄光を現すところではないのです。

もちろん人間には罪がありますから、12使徒たちの間でさえも「自分たちの中で誰がいちばん偉いか」などと言うことが繰り返し議論されました。そしてそんな使徒たちにイエス様はこう教えられたのです。「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのと同じように」。(マタイ20:25~28)こういうイエス様の教えに従おうとするのがキリスト教会なのです。

ですから、キリスト教会の中ではいくら才能豊かで立派な経歴があってたくさんの財産を持っていても、そのことでちやほやされることがありません。逆にそういうものを持っていないために色んなところで軽んじられてきたという人でも、そのことで軽んじられることがありません。キリスト教会の中では「力」は人を蹴落とし自分を誇るための武器ではなく、「誰かに仕えるための賜物」となります。そして「弱さ」はコンプレックスの原因ではなく「誰かとつながるための絆」となり「神の力が現われるための舞台」となります。そしてそういう「肩書」や「能力」や「持ち物」とは関係なしに、神様によって造られ、愛されているがゆえに、その人の存在そのものが喜ばれ、大切にされ、受け入れられるところ。そのようにして「人間の栄光」ではなく「神様の栄光」をほめたたえ、喜び、共に礼拝を捧げる共同体。それが「キリスト教会」なのです。ここにあなたの席もあります!新しい年、ぜひ勇気を出して、お近くのキリスト教会の日曜礼拝に出席してみてください。

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