聖書の言葉
こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」
新約聖書 マタイによる福音書 2章17,18節
大西良嗣によるメッセージ
今日は、多くの教会で、クリスマスを記念した礼拝が行われます。クリスマスと言うと、華やかで楽しい、あるいはロマンチックなイメージを持っている方が多いことと思います。
イエス・キリストがお生まれになったことを祝うのがクリスマスです。クリスマスの時に教会でよく聞く話の一つに、博士たちが宝物を持って赤ん坊のイエス様を拝みに来たという話があります。ラジオをお聞きの皆さんの中にも、その話を聞いたことがある方がいらっしゃるかもしれません。遠く東の国で、イエス様がお生まれになったことを知らせる星を見て、長い旅をしてやってきた博士たちの話です。ロマンを感じさせられます。
実は、聖書には、この博士たちの話に続けて、クリスマスの時にはあまり聞かない話が書かれています。当時、ユダヤ人たちが住む地方を治めていたヘロデ王が、イエス様が生まれたベツレヘムの町に住む2歳以下の男の子を、皆殺しにしたという話です。イエス様は、父ヨセフに連れられてエジプトに逃れますので、殺されずに済みます。しかし、ベツレヘムの周辺では多くの子どもたちが殺されました。子どもを失った親たちは、あまりの出来事に、どれほど嘆き悲しんだことかと思います。
この出来事を記録したマタイは、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現したのだと書き添えています。先ほど読みました聖書の言葉は、マタイが書き添えた預言者エレミヤの言葉です。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」ラケルは、イスラエル人の祖先ヤコブの奥さんです。ラケルの名前を出すことで、子どもたちが失われたことを嘆く母親たちを代表しているのでしょう。あまりの悲しさに、慰めてもらうことさえも拒絶するほどに、激しく嘆き悲しむ声が鳴り響いています。
イエス・キリストがお生まれになったことを祝うのがクリスマスです。しかし、イエス様がお生まれになったからと言って、すべての悲しみや痛みが無くなったかと言うと、決してそういうわけではありません。皆さんの中にも、クリスマスを祝うような気分にはなれないと感じるほどに、つらい思いをされている方がいらっしゃることと思います。聖書は、クリスマスが来て、誰もがハッピーになったとは語りません。クリスマスの直後に、幼い子どもたちが皆殺しにされた、そういうつらい現実を、隠すことなく語ります。クリスマスは来ても、私たちは、つらい経験をすることがあるのです。
マタイは引用しなかったのですが、預言者エレミヤの言葉には、実は、続きがあります。こんなふうに続きます。
「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。」
マタイが引用したエレミヤの言葉は、エルサレムが滅ぼされて、人々がバビロンへと連れ去られる様子を目の前にして、エレミヤが語った言葉であったのかもしれません。国が滅ぼされ、親しい者たちが連れ去られるつらい現実があります。そういう現実が、厳然として目の前にあるのですが、主は「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい」と語り掛けられます。なぜなら、主ご自身が「息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある」と約束してくださるからです。
目の前には、まだつらい現実が横たわっています。その現実を前にして、主は「あなたの未来には希望がある」と約束してくださるのです。
イエス・キリストがお生まれになりました。それによって、つらい現実がなくなったわけではありません。私たちは、今もなお、つらい経験をします。そういう現実を目の前にします。マタイは、そのつらさを表現する言葉として、エレミヤの預言を引用しました。マタイによる福音書を最初に読んだ人たちは、エレミヤの預言がまとめられたエレミヤ書によく親しんでいたと思われます。ですから、引用されなかった続きの言葉を、読者たちは知っていたと思われます。つらい現実が確かにある。しかし、それでもなお、主は「あなたの未来には希望がある」と約束してくださるのです。
クリスマスは、私たちの未来の希望が始まった日です。イエス様の誕生によって、全世界を造られた、唯一の真の神様が、「あなたのことを見捨てていない」と示してくださった日です。目の前には、まだつらい現実があります。それでもなお、私たちの未来には希望があると、確信をすることができる日です。