ロッキー・ラクーン

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聖書の言葉

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

新約聖書 ヨハネによる福音書 3章16節

宇野元によるメッセージ

むかし観た映画に、こんな気の利いた言葉があったのを思い出します。「ぼくらのからだには、生まれた時から、ビートルズの詩が刻まれているよ。」あのころから時を隔てて、もういちど聴き直す楽しみを味わっています。

あらためて、ビートルズの歌を聴いていると、物語風な作品に、魅力あるものがいくつもあるのを覚えます。傑作、ア・デイ・イン・ザ・ライフ(A Day in the Life)。「ホワイトアルバム」に収められた、ザ・コンティニューイング・ストーリー・オブ・バンガロウ・ビル(The Continuing Story of Bungalow Bill)。それから、クライ・ベイビー・クライ(Cry Baby Cry)。どれも ジョンのものですが、ボブ・ディラン のその手のものと、非常に近い、親和性があると思います。

ロッキー・ラクーン(Rocky Raccoon)。これはポールが作りました。ロッキーという軽はずみな若者がいた。ある日、恋人が 別の男と出て行った。ロッキーは激怒して、あとを追った。町の宿屋に泊まると、なんと、となりの部屋に、恋人と男がいた。ロッキーは、ドアを蹴飛ばして中に入ります。そしてニヤリと笑ってみせて言います。「ようし、ケリを付けようじゃないか」。ところがどっこい、相手の方がすばやかった。ロッキーはあっけなく部屋の隅に崩れます。すると、これまた、軽い調子の医者がやってきて、軽い会話を交わします。「ロッキー、見事にやられたな。」「いや、ほんのかすり傷さ。」向こう見ずな勇気と強がり。命の軽い扱い。とてもあやうい、空中の綱渡りのような生き方を思います。寄る辺がない。はかない。

そんな物語ですが、その中に、さりげなく繰り返される言葉があります。軽はずみな若者が、宿屋の部屋に入ると「ギデオン聖書が置いてある」。曲の終りでは、今度は傷を負った彼が自分の部屋へ戻ると「ギデオン聖書が置いてある」。日本でも、ホテルの部屋で、これを見かけることがあります。「ギデオン協会」という団体が、許可を得て配布している聖書のことです。軽はずみな若者は、それに目を留めた。「ギデオン」というのは、旧約聖書に出てくる人物の名前ですが、「たぶん、ギデオンが置いていってくれたんだ。新しく生きることができるように」。そんなふうに、ウィットをまじえて締めくくられています。聖書と新しい人生。これが、バイブル、リヴァイヴァル、という具合に、響きが重なるように歌われています。

あの頃から時を隔てながら、思います。自分はどれだけ変わっただろう。そして、自分の命、人の命を、どれだけ大切にしているだろう。命を粗末にしてしまう、軽はずみな生き方をしていた頃と、どれほどちがっているだろう。がつがつと暮らして、無理な生活をして、いつの間にか、大切な命の値打ちを忘れていないか。あるいは 無感動に、惰性的に過ごして、命の意味を見失っていないか。糸が切れた凧のようになっていないか。命の根を失っていないか。

そんな自分の前にも、聖書があります。つつましく、さりげなく。私たちの生活のかたわらに。私たちがひらくのを、待っているように。

聖書は私たちに、もういちど、命の大切さを教えてくれます。イエスが語ってくれています。「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マルコ8, 36. 37)

そして聖書は、私たちの命に対する、真剣な顧みを語ります。私たちの命は、羽毛のように軽いものではない。たちまち消えてゆく、はかなく、無意味な存在ではない。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」「クリスマスに、救い主・キリストが生まれた。私たち人間の歴史の中にこの事実が与えられている。私たちが一人も滅びないための、特別な顧みを証するものとして。」聖書はそう語っています。

生きる方向がわからないとき、生きる価値がわからず、どう生きたらいいかわからないときに、イエス・キリストという拠り所が与えられています。神が、その独り子を与えて下さっています。私たちを愛して。

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