聖書の言葉
イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
新約聖書 ヨハネによる福音書 5章17節
吉田隆によるメッセージ
今お読みしたイエスの言葉が出てくるヨハネ福音書の5章には、ちょっと面白いお話が書いてあります。エルサレムの都をイエスが訪れた時の話です。エルサレムの町に、ベトザタと呼ばれる池がありました。その池には不思議な言い伝えがあったようです。そこには、時々、天から神様のお使いが降りてくる。すると池の水面がちょこっと動く。その時に、真っ先に池に入った人は、どんな病気でも癒されると。本当なのかどうなのか、わかりません。けれども、藁にもすがりたい、たくさんの病人や障害を抱えていた人たちが、そこに集まるようになりました。
そんな所に、もう38年も病気で苦しんでいる人が横たわっていたと言うのです。イエスは、その人のところに近づくと、「良くなりたいか?」とお尋ねになりました。そんなの当り前じゃないかと私たちは思いますよね。でも、その人の答えが面白い。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」。きっと足が不自由だったのでしょう、自分ですばやく動くことができない。やっとのことで行こうとする時には、もう誰かが先に入ってしまうのだと、こんな現状をイエスに訴えたのです。何しろ、いつ水面が動くのかわからないのですから、たとい家族や友人がいても、そんな所に24時間はり付いているわけにはいきませんよね。結局、自分でか、そこにいる人の手を借りなければなりませんでしたが、そこにいる人たちは皆、自分が先に入りたいわけですから、他人を手伝って先に入らせてあげるはずもありません。この人は、そんなジレンマの中で何の希望も無く、さりとて他に行くあてもなく、ただただ毎日をそこで過ごすしかない気の毒な人でした。ひょっとすると、病気そのものよりも、そうした孤独感の方が大きかったかもしれませんね。
ところが、この人の訴えを聞くや、イエスは一言、「起き上がりなさい」と言われました。すると、その人は、驚くべきことに、すぐに良くなって床を担いで歩き出したと、聖書に書いてあります。しかし、お話はそれで終わりではありません。その日は、安息日だったのです。安息日とは、安息の日。いっさいの仕事をしてはならないという、当時も今も、ユダヤ人の間で厳格に守られている掟の日でした。病気がいやされて大喜びで床を担いで歩いていた男に対して、そして、この男の病気を癒して、そのように命じたイエスに対して、とんでもない奴らだと、人々は責め始めたのです。その時にイエスがおっしゃったのが、冒頭で御紹介した言葉です。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と。安息日であろうとなかろうと、神は働いておられる。だから、イエスも働き続けるのだと。
一昔前、バブルの頃の日本では「24時間戦えますか?」という言葉が流行りました。ところが、最近では24時間営業し続けることができないコンビニが出始めましたね。もう無理だと。ですから、かつての日本ならいざしらず、今の日本で、この「働き続ける」というイエスの言葉は何だか時代に逆行するような言葉に思えるかもしれません。
ですが、もう少し考えてみましょう。この病気を治してもらった男は床を担いで歩いていたのでとがめられたのですが、もとはと言えば彼がイエスに願ったのでしたね。「水が動く時に、私を池の中に入れてくれる人がいない。もし動いたら私を担いでいってほしい」と、彼がそう願ったその日は安息日だったのです。つまり、彼の頭の中には元々安息日のことなんて、これっぽっちも無かったのですね。考えてみれば当たり前です。そもそもこの男は仕事ができない体だったのですから。そんな人に、安息日は何の意味もありません。毎日が日曜日。でも、それは、ちっとも嬉しくない日曜日です。年がら年中、寝たきり。年がら年中、一人ぼっちなのですから。そこには、本当の意味で心安らぐ、安息の日は一日もなかったことでしょう。
24時間年中無休で働き続けることも、ひたすら寝たきりの人生も、どちらも本当の安息が必要な人たちだと言えないでしょうか。どちらも、本当に心安らかに日々を過ごせる安息が必要だと。子どもは親が一緒に居てくれて、親がいろいろ配慮してくれて、それで心穏やかに暮らすことができますね。それと同じように、人間は、神様という親が一緒に居てくれて、神様にケアされ愛され続けて、初めて心穏やかに過ごすことができるものです。
ひょっとすると、この日曜日も働かなければならない方がおられるかもしれません。心や体が弱って、ベッドの上でこの放送をお聞きになっている方がおられるかもしれません。ご安心ください。イエス様は、求める人の元に来てくださいます。そして、私たちが、心穏やかに、人生を喜びをもって生きるための深い平安、安息をくださる方です。このお方は、私たちの救い主としてのお働きを、24時間止めないお方だからです。