石井十次物語③

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聖書の言葉

天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。

新約聖書 マタイによる福音書 13章31節

吉田実によるメッセージ

5月から続けて、石井十次と言う人の物語をお話させていただいております。先週は、医者になるという夢を捨てて孤児救済のために自分の人生をかける決意をした石井十次の元に、次々と親を失った子どもたちが集められ、ついには1200人もの大所帯になったということ、またそのような状況の中でも十次は子どもたちを少人数のグループに分けて、「お母さん」と呼ぶ女性の世話係を付けて子どもたちの世話をしたということ。つまり主イエスに倣って、決して子どもたちを十把一からげに扱うことをしなかったというお話をいたしました。今日はその少し前の時代から、お話を始めたいと思います。

1890年の濃尾大地震の震災孤児を受け入れ、岡山孤児院の子どもたちの数が200名を超えた頃に、大変悲しい出来事が起こります。石井十次と共にずっと孤児院の子どもたちを支えてきた妻の品子が、肺結核のために31歳の若さで亡くなるのです。悲しみに暮れる十次でしたが、大勢の子どもたちのお世話をする孤児院の仕事は支えてくれるパートナーがいなければ決して出来ない仕事ですので、知人の勧めもあり、十次は孤児院で働いていた吉田辰子という女性と再婚をいたします。そしてその後、孤児救済の働きを広く世間の人々に知ってもらうために、十次は子どもたちに楽器を習わせてブラスバンドを編成し、各地を回ってコンサートを開きながら、幻燈で孤児院の働きを紹介して寄付を募る「幻燈音楽隊」の活動を始めます。

そして1898年、尾道で公演を行った際に、放蕩の挙句に謹慎を命じられていた大原孫三郎がその石井十次の話を聞いて深く感銘を受けました。そしてそれ以後、大原孫三郎は石井十次の働きを全面的に支援するようになるのです。また、同志社大学の創設者であります新島襄も石井十次の働きを知りまして、勉強が得意な若者が大学で続けて勉強できるように応援をしてくれたそうです。また、やがて子どもたちの数が1200人を超え、岡山の都会で暮らすことに限界を感じた十次は、故郷の宮崎県の茶臼原に孤児院を全面移転する決意をしまして、少しずつ実行に移して行ったのですが、この時に山室軍平という青年が協力をしてくれます。後に救世軍を創設いたしました、あの山室軍平です。そのようにして様々な苦労を経験しながらも、大勢の人々の協力を得つつ1912年に茶臼原への移転を完了した石井十次は、孤児院の経営だけでなく、高鍋製糸会社の経営も引き受け、郷土の産業の発展にも力を注ぎますが、長年の無理がたたって腎臓を悪くし、1914年に初孫誕生の知らせを聞いたすぐ後に、天に召されたのです。49歳でした。

「鮎は瀬に住む、鳥は樹に宿る、人は情けの下に住む」という歌が大好きだった石井十次は、神を愛し、隣人を愛し、まさに神と人の情けの下に子どもたちと一緒に住み続けた人であったと思います。そしてそんな石井十次の歩みに共感して、応援をしてくれた人たちが常にいたということを思わされます。自分自身の命を捧げるようにして愛に生きる人の歩みに触れた人たちは、じっとしていることが出来なくなる。そして「自分も一肌脱ごう」という気持ちにさせられる。献身的な愛はそのようにして感動を生み、感動は人を突き動かし、そこにまた新たな愛の物語が始まり繋がってゆくのです。

そもそもこの石井十次の物語は、十次が幼いころ、お祭りの日に友達が貧しい着物と縄の帯を馬鹿にされていじめられている様子を見かねて、自分の真新しいつむぎの帯と縄の帯を交換してしまった時に、そのけなげな思いやりに感動した母親の乃婦子が「それは良いことをしましたね」と、温かい言葉をかけたところから始まった物語なのです。石井十次は「親のない孤児よりももっと不幸なのは、心の迷い子、精神の孤児なのです」と言いました。今は当時のような形の孤児は少ないのかもしれませんが、形を変えた心の迷い子、精神の孤児たちは、決して少なくないと思います。そして誰もが石井十次のような働きが出来るわけではありません。でも、石井十次の母親のような、心のこもった愛の言葉を誰かにかけることは出来るかもしれません。そしてそれは決して小さなことではなくて、そこからいろんな人たちを巻き込んで進む、新しい「愛の物語」が始まるのかもしれません。神の国は「からし種」のような小さなところから始まって、やがて大きく成長するからです。皆様の愛のこもった一言からも、特別な「愛の物語」が動き始めますように。

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