何故十字架に

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聖書の言葉

イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

新約聖書 ヨハネによる福音書 19章30節

大野桂一によるメッセージ

十字架の建物を見ると、子どもさんでも教会だとすぐに分かって下さいます。若い方々が(女性ばかりか男性も)十字架のネックレスをされているのを見かけることがあります。私たちキリスト者にとっては、すこし複雑な気もしますが、嬉しいことではあります。何故なら、十字架は教会のしるしそのものだからです。でも、私たちは、そのような方々をはじめ、一人でも多くの方に、十字架の真の意味を知っていただきたいと、心より願うのです。

皆様もご存じの通り、十字架は処刑の方法で、息があるのに裸にされ、十字架に釘で打ちつけられ、暑い日差しにさらされ、血が流れ、段々と体力が衰えて行く、なぶり殺し、辱めを与える、最も残酷な処刑でありました。ローマ帝国でも、奴隷か国家反逆罪の政治犯に対してのみに限られた刑でした。イエス様が、どうしてこのような十字架にかけられたのでしょうか。

イエス様は、病人を癒し、弱い立場の人々を救い、この世にあって良い業(わざ)をなし、神様の真理を教えられました。このイエス様の行動や教えが、ユダヤの指導者たちに、ユダヤを揺るがすようになる、と考えさせたのです。ユダヤの裁判では、死刑の理由は「神を冒瀆した」というものでした。彼らはイエスを生かしてはおけないと考えました。

ユダヤでは、木に架けられた者は、神に呪われた者であると考えられ、彼らはイエス様を、神に呪われた者として、無理やりにでも十字架にかけたかったのです。しかしユダヤの法廷では、十字架にかける権限がありません。当時ユダヤを支配していたローマ帝国の総督ピラトは、イエス様には十字架にかける罪がないことを分かっていながら、ユダヤ人たちの圧力に屈し、ユダヤ人の王と自称してローマ帝国に反逆した政治犯として、ローマ帝国の権限で、正義を決める公の裁判で、十字架刑を決定したのです。

それは今ごろの春の季節、多分、紀元30年頃の4月7日の金曜日のことでした。ヨハネの福音書によると、正午頃、死刑宣告、鞭打たれ、十字架を背負わされて、ゴルゴダの道を歩み、午後一時頃に十字架に架けられ、数時間で息を引き取られました。十二弟子の一人であるユダは裏切り、残った弟子たちは、自分たちに迫害の及ぶのを恐れ、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまい、イエスの集団は壊滅したのでした。

このような中にあって、イエス様は、十字架をどのように受けとめられたのでしょうか。新約聖書の中に4人の弟子が書いた福音書があり、それらによると、イエス様は自分の言動が、ユダヤの指導者に、自分を抹殺するように進ませて行くことを予想されていました。自分が十字架にかかることが、神の意思であると受けとめられ、覚悟の上で自ら進んで、自分の意思で死に赴いていかれました。ローマ帝国の総督ピラトは、イエス様が無罪であると分かり、助けようとしましたが、イエス様は、神の意思を完成されるために、一切の弁明をせず、沈黙を守られました。

4つの福音書の中に、十字架上でイエス様が発せられた7つの言葉が記録されています。

最初の言葉は、ルカ福音書23章34節に「父よ彼らをお赦しください、自分が何をしているのか知らないのです」とあるように、無実の自分を十字架にかけた人々に対して、呪いではなく、彼らを赦してくださいと、父なる神に祈られたのです。

本日のヨハネは「イエスはぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」と記しています。成し遂げられたとは、総てが完成した、総てが全うされたという意味です。イエス様の死とは、完成であるというのです。

何を完成されたのでしょうか。イエス様は父なる神の意思、ご計画を完成して下さったのです。それでは父なる神の意思とは何かと言えば、神から離れ、自分中心に生きている私たちを、赦し、救おうとされる計画です。十字架は、神などいないと自分中心に生き、神との関係を断たれている私たちが、神との関係を、再び回復するための愛の業でありました。聖書は、自己中心に生きる私たちの生き方、神との関係を断って生きる、この的外れの生き方を罪と言います。神は正しく聖(きよ)い方であり、私たちの的外れの生き方である罪を赦すことが出来ません。人の罪は、罪として罰せねばなりません。

この私たちの罪を、イエス様が私たちに代わり、自分でひき受け、十字架の上で神の罰を受けて下さったのです。私たちは、イエス様の十字架を信じさえすれば、神から罪の無い者として認められ、神との関係を回復され、神と共に永遠に生きることが出来るようになるのです。

人の目から見れば、イエス様の十字架の死は、イエス様のなさった総ての良き業も教えも、全くむなしく終わりをつげたように見えました。しかし、神の目から見れば、ここに人類の救いの道が完成したのです。人間の罪のど真ん中で、神の救いが完成したのです。どんな罪ある人も、救われる道が拓かれたのです。

十字架の時逃げ去った弟子たちは、よみがられたイエス様に出会い、段々と十字架の意味することが分かってきました。今度は、弟子たちはいかなる迫害にあっても、殉教の死を賭しても、イエス様の十字架の真理を証し始めたのです。

人類の歴史を、紀元前と紀元後に二分するイエス様の誕生、そして十字架は、神の意思であったのです。神が、人類歴史上で直接介入された、救いの出来事でした。そして2000年後、虚偽や不信や汚職やテロや、戦争等の罪が溢れている今も、私たちの救いのために、イエス様の十字架は、立ち続けているのです。ここに救いがあるのです。

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