マリリン・ロビンソンの明察

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聖書の言葉

イエスは、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。

新約聖書 マタイによる福音書 9章36節

宇野元によるメッセージ

アメリカのクリスチャン作家に、マリリン・ロビンソンという人がいます。2005年にピュリッツァー賞を受賞しています。受賞作は『ギレアド』という小説で、牧師が主人公です。外国文学をお読みになる方には、特別なこととは思われないでしょう。欧米の文学作品では、牧師が出てくることは珍しくありません。それでも、いわゆる「牧師もの」、牧師を主人公とする作品が、成功するのは至難のわざといえるでしょう。なぜなら、作品に面白味があっても、肝心の牧師を描ききれていないか、反対に、牧師のありようを捉えていても、文学として弱いか、どちらかになりやすいからです。

『ギレアド』は、このとてもむずかしい一致を成し遂げています。牧師という存在が、まるで牧師の経験をしている人の筆によるかのように、ゆき届いた理解をもって描かれています。そして信仰の豊かなビジョンが、非現実的にではなく、表現されています。同時に、生きた人間のありようが、また人間と人間のかかわりが、愛情を込めて描かれています。狭い意味でのキリスト教の敷居をこえて、人の心に働きかける作品が生まれました。日本では、2年前に翻訳が出版されています。

ある雑誌のインタビューで、ロビンソンさんがこの作品について語りながら、今の世界に触れているくだりがあります。直接には、アメリカの状況に対するものですが、私たち日本の、今の世の中のありようと重なるところがあると思います。

「現代は、シリアスであることを何かと避ける時代だ。けれども、シリアスであることの喪失は、希望の喪失であるように思う。私が子どもの頃は、よく、『のちの世代』ということが言われた。人々は未来の世代ために、世界をよいものにしたいと思っていた。まだ見ない、会うこともない、のちの人々のために、力を尽くそう、そういう気概があった。今の私たちは、『よりよい世界を残そうとしているのか?』という問いに対して、はっきり答えられなくなっているのかもしれない。」

よい将来を考えるのが難しいのは、現代の世界には困難な課題がたくさんあるから、ということではないでしょう。思えば、いつの時代も困難な課題があります。その現実のなかで、私たちはよりよい世界を作ろうとしているだろうか?そう問いかけられます。アメリカには、たとえば、奴隷制の歴史がありましたが、それに反対する人々の歴史もあり、献身的な働きがありました。キング牧師と、公民権運動に参加した人々のことが思い起こされます。さらに、それ以前からつづく、無名の人々による、粘り強い取り組みがありました。ロビンソンさんは自問します。今の私たちはどうだろう?

イエス・キリストは、シリアスに私たちを見つめ、それによって確かな拠り所を与えてくれます。イエス・キリストは、私たちが気づかないでいることを示してくれます。私たちが気づいていても、考えようとしない、見ないようにしている事実を。シリアスに。それゆえに希望をもって。

けさの言葉はそれを語っています。

「イエスは、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」

これに続けることができるでしょう。イエスは、現代の私たちを見て、私たちが疲れ、弱っているのを深く思ってくれている。いろいろな知恵や、能力や、経験を持っているが、進むべき道がわからない。じつは、途方に暮れている。のちの人々のことを思い、力を尽くすための堅固な足場を持っていない。多くの情報に囲まれているが、真に頼れるものがない。自分を養ってくれる存在を知らない。飼い主のいない羊のよう、そんな私たちを見ている。イエス・キリストのシリアスなまなざし。愛のまなざし。そのなかに映る自分がある。それをおぼえるとき、聖書の言葉に耳を傾ける者になります。

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