わたしであると言われるイエス・キリスト

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聖書の言葉

イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「(エゴー・エイミ)わたしである」と言われた。

新約聖書 ヨハネによる福音書 18章4,5節

袴田清子によるメッセージ

今回も「エゴー・エイミ」「私は在る、私は在るという者だ」という言い方で、イエス・キリストが御自身を紹介された箇所からお話ししたいと思います。

ヨハネによる福音書で、最後にエゴー・エイミという言い方が出てきますのは、イエス・キリストが弟子のユダに裏切られて、逮捕される場面です。

主イエスには、いつもお祈りをされる場所がありました。ゲッセマネの園と呼ばれる場所です。弟子たちを伴ってそこでお祈りをして、一晩中過ごされることもありました。主イエスは弟子たちと、過ぎ越しの食事、すなわち、最後の晩餐を終えられた後、その園に行かれました。その食事の席を途中で抜け出した、裏切り者のユダも、ずっと前からその場所を知っています。

そして、引き渡される晩、ユダは、600人から1000人と言われる兵士達と、ユダヤ教の最高指導者である祭司長とファリサイ派の人達の下役を引き連れて、この園にやって来ました。武器を持たない一人の人、イエス・キリストを捕えるには、あまりにも大勢の人でした。主イエスと弟子達は、草むらや岩陰に隠れているだろうと想定されていたため、過ぎ越しの祭りの満月の明かりのした、松明やともし火、そして武器を手にしてやって来たのです。

イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。」と聖書は記しています。「いったい、誰を求めているのか、誰を求めているのか判っているのか」という問いにも聞こえます。彼らは「ナザレのイエスだ」と答えます。しかし、彼らは誰を求めているのか、本当は判っていませんでした。そして、イエスは「(エゴー・エイミ)わたしである」と言われたのです。聖書の翻訳は「わたしである」となっていますが、それがエゴー・エイミ「私は在る、私は在るという者だ」という表現になっている箇所です。兵士達は「ナザレのイエス」を探している、と言っていますが、それが本当はどなたであるのか、判っていなかったのです。エゴー・エイミという返事を聞いた兵士達は、後ずさりして、地に倒れたと聖書は記しています。地に倒れたということは、この言葉を発せられると同時に、主イエスから、神の力が出て行ったということです。主イエス御自身が、本来持っておられる神の力が、兵士達を地に倒したのです。

主イエスは、もう一度、同じ質問をされました。「だれを捜しているのか」。そして、再び兵士達は「ナザレのイエスだ」と答えています。主イエスは「(エゴー・エイミ)わたしであると言ったではないか。」と、二度目の答えにもエゴー・エイミと言われ、御自身が預言者モーセに現れた、あの神と同じなのだ、ということを言われたのです。聞いた者たちは、本当に驚いたと思います。

「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」と、主イエスは弟子たちを守ろうとされました。それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と、かねてから語っておられた、主イエス御自身の御言葉が、実現するためであったと説明が加えられています。

すると、主イエスの一番弟子、ペトロが、大祭司の手下、マルコスという人物に打って掛かり、右の耳を切り落としたのです。ペトロは600人以上も居る、捕えに来た者達と、一人で戦おうとしたのです。とても勇気ある行動です。しかし、主イエスは、「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」と言って、自ら、十字架の死に向かって行かれたのです。マタイによる福音書の平行箇所には、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」と記されており、ルカによる福音書の並行記事には「その耳に触れていやされた」とあります。

主イエスは、「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」と言って、自ら、十字架の死に向かって行かれました。

この十字架の杯は、どんなに熱心なペトロでさえ、決して飲むことのできない杯だったからです。それは、罪に対する、父なる神様の怒りと罰と呪いを一身に受けるというものだったからです。イエス・キリストは、何の罪も犯されない、聖なる神の御独り子でしたが、この神の怒りの杯を、一人で飲み干すというのが使命だったのです。ご自身を通して、信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためです。そのために、自ら、十字架の死を引き受けて下さったのです。この御方によって、私達は罪を赦され、癒され、救われるのです。

あなたは「だれを探してい」ますか。イエス・キリストは言われます。「(エゴー・エイミ)わたしである。」

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