キリストの復活による希望

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聖書の言葉

婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」

新約聖書 ルカによる福音書 24章5~6節前半

金原義信によるメッセージ

今日は、主イエス・キリストの復活を祝うイースターです。それで今朝は、イエス様の復活が私たちにもたらす希望についてお話します。

私にも、この番組をお聴き下さっている皆さんにも共通したことがあります。それは、いつか必ず死ぬということです。私たちは生きていますが、やがて必ず死ぬという限界のある命を生きています。しかもその後の事について何の保証もないままなら、それは深刻な問題であるといわざるを得ません。

先週、イエス様が十字架におかかりになったことをお話しましたが、聖書は、イエス様は十字架に死んで、三日目に復活されたと語ります。イエス様が十字架に死なれたのは、私たち人間の罪のために神様に見捨てられるという絶望と悲惨を、私たちの代わりに背負うためでありました。今度は、復活によってイエス様が死に勝利した、死を打ち破ったということです。

さきほどお読みした箇所には、イエス様の十字架の死から三日目の朝、婦人たちが墓に来たときのことが記されています。墓を塞いでいた石がころがしてあり、イエス様の遺体がありませんでした。そして天使が婦人たちにあらわれてイエス様が復活なさったと告げました。そのとき天使はこういいました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。イエス様は復活されて生きておられる。これは私たちが今生きているのとは決定的な違いがあります。私たちはやがて死ななければならない。しかもこれを自分の力ではどうすることも出来ません。死に打ち勝つことは人間の力ではできないのです。けれどもイエス様が復活されて生きておられるというのは、一度死んで後、死を打ち破ってこれに勝利し、死を滅ぼして生きておられるのです。その生きておられるのは、死の束縛を壊してしまってその上で生きておられるということです。私たちの限界を、イエス様が打ち壊して下さったのです。

復活のイエス様を信じるなら、私たちも死んで復活する新しい命に生きる者とされます。死んだらどうなるか分からない、その恐ろしさを抱えた人間の罪と死を背負ってイエス様は十字架にかかって下さいました。それで終らずに復活なさったことによって私たちを罪と死の束縛から解放して下さったということなのです。

だから私たちは死んだら終りではない。たった一人で孤独に死んでいってその後どうなるか分からないというのではないのです。死の壁を打ち破った復活のイエス様が傍らについていてくださり、支えて下さるのです。だから私たちはもう孤独ではありません。そしてイエス様に続く者として復活して、永遠に神様の祝福の中で生きるのです。ただ生きるというのではありません。苦しみや悲しみの絶えない命が続くのではありません。全く罪から清められた魂と、復活の体をもって永遠に生きるのです。もはや死もなく涙もなく、心病むことも体を病むこともないのです。そのようにして復活して天の御国に迎え入れられます。そこには、今私たちが知り尽くせない、言葉で表しつくせない喜びと感謝の生活が用意されているのです。

これがイエス様の十字架と復活によって私たちに約束された復活の希望です。だからイースターを私たちは祝うのです。

この復活の希望をもって今を生きることが出来るようにされています。約束されたゴールに向かって、今を生きることが出来るのです。ゴールがどんなか分からない、希望が見えないというのと、復活の希望というゴールを目指して今を生きるのとでは、同じ生きているようでも、決定的に違うのです。しかも、復活の希望を持つ人生は、楽しいときも、苦しいときも、神様の導きと愛を味わいながらこの世を生きていくのです。そうしながら約束されたゴールに向かうのです。

イエス様は復活されました。だから、私にも、あなたにも、復活の希望があるのです。

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