再び立ち上がる

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聖書の言葉

イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

新約聖書 ヨハネによる福音書 21章5,6節

吉岡契典によるメッセージ

今朝の聖書の言葉は、イースターの後日談です。イースターの日に、弟子たちは、主イエスに出会うことができたのですが、すぐにまた、その主イエスの姿は見えなくなってしまいました。そして彼らは、地元のガリラヤ地方に戻っていって、一度は捨てたはずの漁師の網を拾って、再びガリラヤ湖での漁師の生活に戻っていました。

けれども、漁に出て、夜通し網を引いても、全く魚がかかりませんでした。不毛な漁を徹夜で続けた彼らの前に、もう白々と夜が明けてきます。どうしようもない脱力感です。そしてその時に、誰だかよく分からない人が湖畔に立っていて、「何か釣れたか。食べ物あるか。」と聞いてくるのです。あるわけない。徹夜で漁をしましたので、本当は、「それほどたくさんはありませんけど、まあまあ釣れましたよ」ぐらいの言葉は返したいわけです。けれども彼らはその時、「ありません」と言うしかありませんでした。大のベテラン漁師たちが全力で漁をした結果、「ありません」としか言えない、この空しさ、この辛さ。これが弟子たちの現実でした。

「何かあるか?」この弟子への問いかけは、自分に対する問いかけでもあると私は思いました。今年の春は、ちょうど私が神学校に入学してから20年目の春です。これまで20年近く、牧師としての生活を続けてきましたが、その間に、私の働いた教会が劇的に成長したことはありません。やり残したこと、解決できなかったことは、数々思い浮かびますが、牧師としての私の仕事、留学中の学び、父親としての家庭での勤め、どれをとっても誇れるようなものはありませんし、本当に綺麗事ではなく、自分としてはいくら一生懸命努力したとしても、ダメな時があります。恥ずかしいことですし、一生懸命やっているこの身としては認めたくない事実なのですけれども、成果は出たのかと聞かれて、「だめでした」と答えるしかない、そういう時があり、そういう現実があります。そういう自分に失望することがあります。

けれども主イエスは、その場所に向こうから来て下さいます。そして、その行き詰まった者に、新しい道を示して下さいます。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」この主イエスの言葉に従うことによって、この時弟子たちにも、不思議と道が開けました。声に導かれて、網を下ろした時に、弟子たちは気付きました。このはち切れそうなほどの網の手ごたえには覚えがある。その網の重みによって、主イエスに初めて出会った時の記憶が呼び起こされたのです。その時弟子の一人が、「主だ」と叫びました。その叫びを聞いた弟子のペトロは、とっさに湖の中に飛び込んで、われ先にと100メートル以上泳いで、岸を目指しました。喜びのあまりに興奮して、船が着くまで待てない。いてもたってもいられないのです。それだけ、主イエスが近くに居てくださるということが、弟子たちにとって必要でした。

復活という聖書の言葉は、もともと「立ち上がる」という意味の言葉です。ペトロが復活された主イエスに出会ったのは、実はこれが3度目なのですが、この3度目でようやく、主イエスが復活されたことの意味が本当に分かったのだと思います。主イエスは死んでしまった救い主なのではなくて、蘇って、そこからずっと、今も生きていて、そしてこの主イエスは、倒れる私たちを、2回でも3回でも、何度でも立ち上がらせ続けてくださる方なのだと。主イエスの復活の意味はそこにある。そして、この主イエスと私との繋がりは、決して失われないのだと。

とても不思議な光景が、このあと語られています。弟子たちが舟から陸に上がると、そこには、朝食が用意されているのです。朝ごはんです。復活の主イエスは生きている!すごいぞ、やったーっ!という高ぶりと共に、弟子たちがうわーっと陸に上がると、「じゃあ、朝ごはん食べよう!」という流れになるのです。何の劇的なことはない、全くのただの日常がそこにあった。今までの3年間、毎朝主イエスと続けてきたように、弟子たちは、湖畔で主イエスと朝ごはんを食べたのです。

けれどもこの朝食は、弟子たちが、生涯忘れることのない、恵み豊かな朝食になりました。何も釣れなかった空っぽの網が、主イエスと食事を摂る朝には、大きな魚でいっぱいにされていた。がっくりと膝をついて迎えるはずだったその朝が、不思議と、両手には収まり切れないほどの豊かさに満ちた、朝になっていた。

この新年度から、状況がどう変わり、何が起ころうとも、この復活した主イエス・キリストが、私たちの日々の生活の只中に、生きておられますので、私たちは、安心して、落ち着いて、朝を迎えていい。どうしてもうまくいかない、という思いの中で、倒れ込むように眠りにつく夜、本当に眠れないような夜があっても、私たちが迎える朝には、そこに主イエス・キリストがいてくださる。そして何度でもこの方によって、立ち上がらせていただくことができる。これが私たちの希望です。

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