聖書の言葉
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
新約聖書 マタイによる福音書 27章46節
金原義信によるメッセージ
今日からの週は「受難週」といってキリスト教会がイエス様の受難、十字架におかかりになったことを特に覚える週です。そして次の日曜日はイエス様の復活を記念するイースターを迎えます。それで今朝は、「キリストの十字架による救い」という題でお話します。
私たちにはこの世を歩みながら誰もが背負っているものがあると思います。幸せに生きたい、誰とでも平和に生きたいと願う。しかし現実はなかなかそうとばかりはいきません。自分の歩みが不本意なものであったり、人間関係に悩んだり、愛の破れを経験したりします。そんな中で、人間が決して無垢な、きれいなものではないことを思い知らされます。人には言えない密かな心の動きがあり、醜いものがあります。罪があるのです。そしてそのようにして生きて、やがて死んでいきます。そうやって考えると、人生って何だろう、と虚しさや孤独を感じたりするのではないでしょうか。
それだけではありません。死の向こうに何があるのだろう、ということも考えずにおれません。そして考えると不安を覚えるのではないかと思います。それは、この世で罪をもって生きてきたから、ということと関係があります。だからこそ、現世で善良に生きた人と悪人では天国と地獄という具合に行き先が分かれるとか、閻魔様がいて、などということが言われるのではないでしょうか。でも本当のところは誰にも分からないのです。
もし、今述べました問題に何の解決もなく死を迎えなければならないとしたら、それはまことに不安なことです。どんなに成功した人生であっても、行き着く先は、この虚しさや不安であるということになるのですから。しかもこの世を去るときは、皆たった一人になります。どんなに親しい人も一緒に支えあうことは出来ないのです。そこには人からも、神様からも見捨てられる虚しさや孤独があるのです。それはまことに悲惨なものです。これが、私たちが背負っている、一番根っこにある問題です。
けれども、もしだれか力のある方が、私たちが生きるときも、世を去る時も、その後も、傍らにいて支えてくれていたらどうでしょうか。イエス様が十字架にかかって下さったというのは、実は私たちが背負っているこの不安、孤独・虚しさを私たちの代わりに背負って下さったということなのです。私たちが死の向こうにある何かを感じ恐れていたのは、本当の神様が、審判者としておられ、私たちはその神様の前に立たなければならないからです。罪をもって生きてきたから、すべてを見通しておられる神様の前に出るのはこわかったのです。イエス様は、そんな私たちの代わりにその不安・孤独・虚しさ、その悲惨を、私たちのために背負って苦しんで下さいました。それは、それは神様に見捨てられることから来る恐怖、孤独・虚しさを代わりに引き受けて下さったということなのです。
このことを、さきほどお読みした「どうして私をお見捨てになったのですか」という十字架でのイエス様の言葉がはっきりと示しています。イエス様は私たちが背負っている不安や孤独や虚しさを代わりに背負って私たちのために苦しんで下さいました。そのために十字架の苦しみを受けて下さった。神様に見捨てられる悲惨な苦しみを受けて下さった。それほど私のことを愛して下さっているのです。私たちが背負っていた不安や孤独や虚しさは、そこにぽっかり空いていた穴は、このイエス様の愛ですっかり埋められ、満たされたのです。私の罪は神様に赦されたといえるのです。ここに救いがあります。
さきほどのイエス様の言葉は、旧約聖書の詩編22編の言葉の一部ですが、この詩は全体としては神様への信頼、また勝利をうたった歌です。イエス様はここで「わが神、わが神」と叫ばれました。イエス様が十字架にかかって下さって、神様に見捨てられるという悲惨を私の代わりに背負って下さった。だから、私たちは神様に赦され、永遠の祝福をいただくのです。だからどんなときでも「わが神」、私の神様、と叫ぶことが出来ます。神様が、私の罪のために恐ろしい顔を向けておられるのではなく、私の神となって下さったからです。私に赦しといつくしみ、愛とやわらぎのまなざしを向けて下さっているからです。
イエス様が十字架の苦しみを受けて下さった。ここに神様の愛があります。イエス様の十字架は私のため、あなたのためなのです。