メーリケの詩より

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聖書の言葉

わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。

新約聖書 ヨハネによる福音書 4章14節

宇野元によるメッセージ

メーリケという詩人がいました。19世紀のドイツの人で、ゲーテより少しあとの時代の詩人です。小さな村の牧師でした。毎週の説教の務めが負担で、副牧師に交代してもらった、そんなのんびりしたエピソードを残しています。時代の中心から離れた所に生き、ひろく知られることもなく亡くなりました。

クラシック音楽がお好きな方は、シューマンや、ヴォルフが曲をつけた詩の作者としてご存知かもしれません。彼自身、音楽と関わりがあって、『プラハへの旅路のモーツァルト』という作品を書いています。横道にそれましたが、この人の詩には、現代の日本の私たちにも働きかける不思議な魅力があると思います。私たちの思考を一段掘り下げてくれるものを感じます。「新しい愛」という小さな詩から、少し紹介させていただきます。

私たちは、そうありたいと思うほど、完全に

他者のものになれるだろうか?

ながい夜に、私はそんなことを思いめぐらした

その答えは、ノー!

一人でいたい、というのではない。「誰かのものになる」。それほど深く、心を通い合わせたいという願いがあります。詩人は、誰か具体的な人のことを考えていたに違いありません。心が惹かれる人、心を寄せる人のことを。あるいは、互いに想いを通わせる相手のことを。心の触れ合いがあります。あるいは、互いを深く思い合っています。けれども、それでも足りない。自分の心を隈なく満たされたい思いが残っています。

そして、こんなふうに続けられています。

それなら、この世界のなかで、私は誰のものでもありえないし

誰一人、私のものであることは不可能なのだろうか?

暗闇の中から、私の心に喜びがひらめき輝く

神様と共にあるのではないか

まさに「私のものあなたのもの」、そう私が願うように

メーリケの詩を、こんな風に敷衍することができるでしょう。

――私たち人間は、誰のものでもない。誰にも属さない。なぜなら、私たちはもともと、自由な存在、独立した存在として創られているのだから。私たちが抱えている触れ合いの必要、それは人との触れ合いにおいて満たされるものではない。私をよく知る存在、私の周りにいる誰よりもよく知ってくれている存在、私自身よりも私のことを分かってくれている特別な存在だけが、私の心の深い必要を満たすことができる。

私たちは触れ合いを求めます。一人でいると、さびしくなります。私たちは人恋しい存在ですね。それだけに、人が自分に注意を払ってくれなかったりするとがっかりします。身近な人や、親しい関係においてはなおさらでしょう。気持ちがすれ違うと、不満に思ったり、おこったりします。そうして大切な人を悲しませてしまいます。「そうありたいと思うほど、完全に」相手のものになれないからです。

私たちは一人一人、みずからのうちに支えを持っていることが必要です。確かな拠り所が必要です。みな限界をもつ存在、それを自覚しつつ、大切な人と共にあるために。 互いを想い合い、助け合うために。

イエス・キリストが、町はずれの井戸の傍らで、一人の女性と出会い、会話をされた。 けさはそこからお読みしました。私たちの代表のような女性に、先に声をかけられ、相手の心に寄り添いながら語る様子が、とても細やかに記されています。救い主が、私たちにどれほどねんごろに心を砕いてくださるかが伝わってきます。

何人もの人と関係を重ねながら、満たされない心を抱えているひと。埋められない心の穴を抱えている存在に、心の襞の繊細な痛みに、ふさわしく応える言葉が語られています。二人の横にある井戸の水を引き合いにして、

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

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