新しい命を生きる

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聖書の言葉

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

新約聖書 ヨハネによる福音書 3章16,17節

大野桂一によるメッセージ

クリスマスも過ぎ、明後日には、平成の最後の新しい年を迎えます。

私たちには、毎年同じことを繰返しているように見えますが、人の命も、この地球も初めがあり、終わりがあります。聖書の一番初めにある創世記の言葉、「1:1 初めに、神は天地を創造された。」神は、何もない無の状態の中で、天地を創られた。天地は神により創られた被造物であると言うのです。物事には初めがあれば、必ず終りがあります。聖書の世界観は直線的で、天地には初めがあり、終りがあるのです。天地の初めは神の創造に始まり、天地の終りは、創造された世界が完成される、神の国の完成の時です。

神は永遠から永遠に生きておられる、目には見えない霊なる方であり、人格をお持ちで方です。人格とは愛することの出来るものですから、神の本質は愛であります。

愛である神は熟慮の末、創造の最後に人間を神の形に似せて創造され、人間に使命を与えられました。創世記1:26 「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう』」とあります。人は動物と同じように創られた動物の一種です。しかし、人の場合は、神は「我々にかたどり我々に似せて、人を造ろう」と宣言され、人だけは、神の形に似せて創造されたのです。神に形に似た者として創造されたということは、人が神に似たような霊性、人格を持つ者として創られたということです。人は霊性において神と交わるものとして創造されたのです。人は動物でありながら、神に似た霊性を持ち、動物以上のものとして、神と交わるべき者なのです。ですから神に似た霊を持つ人は、他のいかなる被造物に比べて尊いのです。人は単なる生き物としての命ではなく、霊そのものであり人格をお持ちの神に似せて、霊性を、人格を持つ者として、即ち神と愛の交わりに生きるべき者としての創られたのです。人は動物と同じ素材、土で創られた物的存在であると共に、一面において動物と異なる神に似た霊性を、即ち、愛することの出来る人格的な存在となりました。

従って人は肉体においては大地と連なり、霊性においては神と連なるのです。霊性において神と愛し合う者として創造されたのです。人の命は一つですが、動物的な命と人間だけが持つ霊的な命と云う二の側面を持っているのです。ですから人は肉体が滅ぶと、その体は動物と同じ様に土に帰りますが、その霊なる命は、神の懐に帰るべきものなのです。

人はこの世界で生きている時も、たとえ肉体が滅びても、具体的な私という存在が、神と共に愛の交わりに生きるべき者として創造されたのです。

神は最初の人に、すべての木の実を食べて良いが、善悪の知識の木からは、決して食べるな、食べると死刑に処す(創世記2:17)と言われましたが、人はサタンの巧みな誘惑に負けて、その実を食べてしまいました。その結果、人は霊肉とも腐敗して神との交わりを絶たれてしまいました。

聖書では神との交わりのないことを罪と言います。当然罪ある人は、神と交わりは出来ません。死に際しても、神との交わりのない神の刑罰の死を迎えるようになったのです。人以外の動物等の死は、始めから神との人格的な交わりのない死であり、自然法則に基づく死で、人の死のように、神の刑罰の死ではありません。しかるに、人の死は悲惨です。神の永遠無限なる怒りの刑罰としての死であるからです。ですから、私たちは、この肉の命がある内に、神との愛の交わりに生きることが必要なのですが、罪人である私たちは、自分の力では神との交わりの回復は不可能なのです。そのような私たち人間を神は尚愛して、その解決の道を開いてくださいました。

本日の聖書の言葉ヨハネによる福音書3:16~17「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世を救われるためである。」

神が遣わされた独り子イエスは、私たちが受けるべき神の刑罰としての死を、身代わりに担われて、十字架刑を受けてくだり、十字架上で、イエスは大声で叫ばれた。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と、罪のないイエスが、私たちの身代わりに総ての人の罪を担い、罪人として、神に見放された刑罰の死を受けて下さったのです。こうして、人の救の道を開かれたイエスを、神は復活されました。私たちの罪による刑罰の死は、既に主イエスが十字架上で処分されたのです。この主イエスの十字架を信じる者は、神は罪無き者として見做して下さり、もはや刑罰の死はなく、神との永遠の交わりを回復されるのです。

主イエスを信じた人は、この世に在って既に神との交わりが回復され、例え肉体が滅びても、霊の命は神と永遠の交わりに生きることが出来るのです。主イエスが再び来られる時、主イエスの御姿に似た、霊の体をもって、神の御国で主イエスと、また私達が愛する人々との永遠の交わりに生きるのです。

本日ラジオを聴いてくださった皆様が、教会に出席され聖書の御言葉を聴いて下さり、新しい命、永遠の命を生きる希望ある人生を送って下さいますように、心よりお祈りいたします。

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