ブドウ園へ行きましょう

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聖書の言葉

「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」

新約聖書 マタイによる福音書 21章28~31節

長井正人によるメッセージ

今日の聖書の話を要約してみましょう。ここは、親と兄弟が登場します。この話の書き出しは「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが」となっています。ある人とはどうやら兄弟の親であると考えられます。ある人に二人の息子がいたのです。お父さんは、二人の息子たちに「子よ、今日ぶどう園へ行って働きなさい」と言葉をかけました。お父さんは二人の息子を差別しません。

ただ、息子たちの答えと態度は正反対です。わたしにも、息子が二人いるのでほんとうに良く分かります。息子どうし意識しあっているのでしょうか、お互いに正反対のことを言ったり、したりします。お兄さんは「いやです」と答えましたが、後で考え直してぶどう園へ出かけました。弟は「お父さん、承知しました」と口では言いましたが、ぶどう園へは行きませんでした。さて、ここで、皆さんに主イエス・キリストから質問があります。「この二人のうちどちらが父の望みどおりにしたのか」。

みなさんは、どちらだと思いますか。この話を、子どもたちにすると、答えは決まって「お兄さん」と答えます。初めはいやだといったけど、後でぶどう園へいったお兄さんのほうが、お父さんの望みどおりにしたと答えます。

確かに、お兄さんは、父親の言うとおりぶどう園へ行きました。その点では、父の望みどおりにしたと言えるでしょう。反対に、弟は、返事はするが、ぶどう園へは行かなかったうそつきな人間だ、という印象を与えます。しかし、よく考えてみるとお兄さんも、最初は「いやだ」と反抗しています。父親の立場からすると、望みどおりの子どもとは「はい、わかりましたお父さん」と答えて、言葉どおりにぶどう園にそのまま行って働く子どもです。その点で言えば、兄も弟も、父親の望みどおりにしていないということになります。

もう皆さんも気づいたと思うのですが、ここでの父親は、神様のことを示しています。兄と弟は人間を表しています。ある人とは、人間の親である神を示しています。子どもは、人間のことですが、ここには、父親に反抗的な兄と見た目はまじめですが、心では父を無視している弟しかいません。ここに聖書の示す人間像があります。人間は神に対して兄か弟なのです。それは、全ての人が神に対しては罪人であるということに他なりません。

ルカ福音書には「放蕩息子」という有名な話があります。その書き出しは、今日の聖書の箇所と全く同じです。「ある人に二人の息子がいた」と始まります。その物語にも兄と弟しか出てきません。兄も弟も父である神に対しては反抗的で罪深い存在で、父親に心を閉ざしているようにして描写されているのです。聖書が人間の姿を記すときは「出来の良い子ども」の姿を書きません。それは、人間はみなどこか神に対して兄であり、弟であるからなのです。正しい人間ではありえないのです。それで、罪のない第3の子供の姿は書きたくても書けないのです。

さて、ここからが聖書の面白いところです。兄も弟も神に対して罪深いのですが、兄は考えを直し、弟は考えを変えませんでした。そこでもう一度質問を思い出してください。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」答えは、やはり最後はぶどう園へ行った兄のほうです。では「父の望みどおりにする」とは何をすることでしょうか。それは「考えなおす」ことです。何を考え直すのでしょうか。ぶどう園は、神の国です。兄は、神に逆らっていましたが、神様のために働こうと考えを直しました。なぜ考えを直すことが出来たのでしょうか。実は、この兄弟には、もう1人一番上のお兄さんがいるのです。長男は、父親にこういいました。「お父さん、下の二人の弟たちは、あなたに対して反抗的であなたを尊敬しない、救いようのない弟たちです。私は二人の弟たちがあなたに対して犯したすべての罪の償いをしますから、どうか二人の弟を赦しやってください。弟たちの罪は死に値します。私が弟たちの罪の身代りに死にますから、お願いします。」そう言って長男は、言葉どおり弟たちの罪の身代りとして死んだのです。

後に、二人の弟は長男の死とその意味を知りました。長男が死ななければ赦されないほど罪深い自分であることを知り、自分のために死んだ長男を信じた人は人生を考え直しましたが、信じられない人は考え直しませんでした。

主イエス・キリストは、私たちの長兄です。全ての人の長兄です。そして、すべての人の罪の救い主です。主イエスは、十字架にかかってその身に私たちの罪を担ってくださいました。この言葉は真実です。考えを直すとは、主イエスに対する考えを直すことです。主イエスこそ、救い主であるという考え方に直していくことです。そうすれば、だれでも、神様から罪を赦されて出来の良い子どもとして神様から迎えていただけるのです。あなたも、主イエスに対する考え方を直して、ぶどう園へ一緒に行きましょう。

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