聖書の言葉
「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
新約聖書 マタイによる福音書 26章27節
赤石純也によるメッセージ
最後の晩餐でキリストが言われました。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。私を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方がよかった」とまで言われるのですが、そのときにユダが「私のことですか、ラビ」と言います。するとイエスは「そうだ」と言われるのですね。その場面を聞いてみましょう。まずユダが「私のことですか、ラビ」と言います。
♪音楽
「私のことですか、ラビ」この言葉をどう考えるか。一つの解釈はこうです。
♪音楽
何とも取り澄ました、しゃあしゃあとした態度ですね。罪人とはこんな程度なのでしょうか。そんなものでは全くないという表現がこちらです。
♪音楽
存在をかけている感じです。罪の重みはむしろこちらの表現の方かもしれませんね。
「私のことですか」というユダにキリストが「そうだ」と答えるところまで続けて聞いてください。
♪音楽
この万感の思いです。生まれなかった方がよかったというのはこの私のことだろうかという、自分の存在が崩壊するような問いに対する、キリストの「そうだ」という万感を込めた語調です。とことん深く掘り下げたこういう表現・こういう読み方を求めているのが、そもそも福音書の文章なのだといっていいのかもしれません。もう一度聞いてみましょう。
♪音楽
これはペトロが崩壊したときの音楽と通じるものがあります。ペトロが裏切ってしまった場面をもう一度聞いてください。「そんな人は知らない」と言ってしまったあと地の文が「そして外に出て激しく泣いた」というところです。
♪音楽
聖書は、こういう人間の現実というものについて、透徹した認識を持っています。それがおのずからこういう血の出るような表現を要請しているのですね。
このとき、一本のヴァイオリンがペトロの心を歌い始めます。
♪音楽
やがて声になって、ひたすら「憐れんでください」と歌います。
♪音楽
「憐れんでください」としか言えないのが私たち人間の現実かもしれません。しかし大事なのは、そういう私たち人間を底の底まで見抜いた上で、キリストはどんな手を差し伸べてくださるのかということです。キリストが弟子たちにワインを差し出しながらいわれた言葉はこうです、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血である」。それはどういう意味か、あなたに対する神の赦しを、どうぞお近くの教会で聞いていただきたいと思います。
♪音楽