永遠の命の希望に生きる

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聖書の言葉

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

新約聖書 ヨハネによる福音書 20章19節

大野桂一によるメッセージ

私たちが人間らしく人格的に生きるためには、互いに愛し信頼していく必要があります。人は誰でも愛したい信頼したい、また愛されたい信頼されたいと願っています。しかし現実には、私達は最後まで愛しきれない、信頼しきれない、愛され信頼されても裏切ってしまう自己中心のエゴの罪を持っているのです。どんなに人格者と言われる方でも、自己中心のエゴがあるのです。聖書では、この自己中心のエゴを罪といい、罪の報酬は死であるというのです。

本日は、イエスさまが宣教を始められて、最初に選ばれたペトロを中心にした弟子たちとイエスさまの関係を簡単にお話したいと思います。

弟子たちはイエスの愛と信頼を受けて、弟子たちもこれに応えイエスを愛し信頼し、仕事を捨て、イエスと共に宣教に従事しました。しかし、こうした群れのなかから、キリスト教会が建設されて行ったのではたのではありませんでした。イエスの活動は、ユダヤの指導者たちに妬まれ、イエスはユダヤの宗教裁判にかけられ、そして彼らの偽証により、当時のユダヤの支配者ローマの総督により十字架刑に架けられ、非業の死を遂げられました。人間的に見れば、イエスの活動は挫折したのでした。

十字架につけられる前の晩、イエスは弟子たちと食事をされました。これは、イエスが十字架につけられ、死ぬことを覚悟された最後の食事で、最後の晩餐と言われています。12人の弟子の内、裏切りの気持ちを抱いていた弟子ユダは別にして、他の弟子たちは、イエスが捕えられて死ぬ、そんなことがあれば、自分たちが守ると本気で言い、そのように決意していました。特にペトロは、他の誰が逃げようとも、自分は最後までイエスと一緒に行動すると言い切りました。ところが数時間後、イエスが逮捕されると、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、ペトロは、真夜中に議員により裁判が行われている法廷に忍び込みました。そして側にいた者たちに、お前はイエスの弟子ではないか、と言われると、思わず身の危険を感じ、違うと否定しました。続けての二度の質問も否定し、合計三度も否定しました。誰でも持っている人のエゴの罪、弱さがが現れたのです。イエスの愛と信頼を裏切ってしまったのです。

聖書には、ペトロは、外に出て激しく泣いたとあります。彼は、自分は生きている値打ちのないものだと後悔に打ちひしがれたのです。朝となり、イエスが十字架に架けられた現場には、男の弟子の姿はなく、女性の弟子たちが遠くから見守ったのです。やがて十字架で死なれたイエスを、ユダヤの議員で、ひそかにイエスを尊敬していたアリマタヤのヨセフが、イエスの遺体を引き取り、自分の新しい墓地に丁寧に埋葬しました。その三日後のことが、本日の聖書箇所、ヨハネによる福音書20章19節です。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」

弟子たちは、先生を裏切ったうしろめたさ、申し訳なさ、何よりもユダヤ人に捕えられ殺されるのではないかとの恐れと不安に満ちていました。ところが十字架で死に墓に葬られた主イエスは、三日目に復活され、弟子たちが集まって鍵のかかった家に、鍵も開けずスーと入って来られました。時間や場所に制限を受ける有限な私達とは、次元の違った体、霊の体で主イエスは来て下さったのでした。そして、弟子たちに、主イエスは、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。ユダヤ人にとっての一番の平和は、神と共にある時です。弟子たちは、主イエスに厳しく叱責されても当然なのに、主イエスは、その罪人である自分たちと共にいると言われたのです。そして、十字架での傷跡を見せられ後、再度「あなたがたに平和があるように」と言われました。父なる神は御自分の御心を完全に行われた主イエスを復活させられたのです。復活された主イエスに出会った弟子たちは、裏切りの罪を犯した自分たちが罰せられず、滅ぼされず、主イエスが尚自分達を愛し信頼し続けてくださっている、主イエスが十字架に進んで架かり死んでよみがえられたのは、主イエスの言葉や、旧約聖書の預言が示す通り、自分たちの罪を赦すための身代わりの死であり、よみがえられた主イエスと共に生きるためだったのだ、と悟ることが出来たのです。

さらに主イエスは、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました。聖霊を吹き込まれた弟子たちは、主イエスの霊と結びつき、たとえ肉体は滅んでも復活された主イエスに似た霊の体をもって、神のおられる御国で、主イエスと共に、愛と信頼の交わりの内に生きる者へと替えられるのです。三度もイエスを知らないと否んだペトロは、復活された主イエスに出会った後は、鞭打たれ、牢獄につながれ、最後は殉教の死を遂げても、主イエスを裏切ることはなかったのです。他の弟子たちも同じでした。

罪の赦しは、私たちの努力や功徳による自分の力では不可能なのです。罪なき主イエスが私たちの罪をすべて担い、私たちの身代わりに十字架に架かられたが故に、神は私たちを罪なき者として認めてくださるので、罪の報酬である死がないのです。この十字架と復活された主イエスを信じさえすれば、私たちは罪なき者として認められ、肉体が滅びても、復活された主イエスに似たものとして、神の御国で共に生きる希望があるのです。

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