新しい自画像

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聖書の言葉

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じ  ます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 6章8,9節

宇野元によるメッセージ

ピカソ、ゴッホ、ムンク、ゴヤ、レンブラント……多くの画家が自画像を描いています。

長く生きた画家たちの自画像には、画風の変化をたどる楽しみがありますね。例えばピカソは、年齢とともに、スタイルを次々に変えていきました。青の時代、ばら色の時代、アフリカ彫刻の時代、キュビズムの時代、新古典主義の時代、晩年の自由奔放な時代、あるいは、もう一度子どもの純粋さに達した時代。それぞれの時代の特色が刻まれています。また、ゴヤの若い頃の、華やかな宮廷での明るい画家の姿。それと対照的な晩年の、濃い影のある自画像。美術がお好きな方は、さらに多くの画家を思い起こされるでしょう。日本の藤田嗣治の、ちょっとすました、しゃれた自画像も浮かびます。ご存知ですか、藤田は晩年、クリスチャンの洗礼を受けています。

なぜ、画家たちは自分を絵にするのでしょう?また、こんなに何度も、くりかえし絵にするのでしょう?近代現代の画家について言えば、ひとつ、とても実際的な理由があります。モデル料がかからないし、いつでも描くことができる。身もふたもない話ですが、自画像にはそんなメリットがあります。貧乏だったゴッホ。彼のたくさん残された自画像には、いとおしさを感じます。もちろん、それだけでありません。「私は誰?」という問いがあります。自画像には、人間の追求という意味があります。

もうひとつ、私は思います。画家が自分を絵にする、それには、自分を残したいという願いがあると。今生きている証を伝えたい。それは画家でなくても、私たちが心のうちに持っているものだと思います。今という時を、過ぎ去るままにしたくない、という思いがあります。それは一方において、死があるからですね。ことさら言うのもおかしな感じがしまから、ふだんはそんなに口にしません。けれども、忘れてはならない重要なことですね。そして私はよくそう思うのですが、いつか自分はこの世界からいなくなる、この世界、この場所、このなじみ深い風景から消える。これを私たちは、人生の幸いな瞬間に強く意識します。命にあふれている時。とても充実している時、私たちは今が過ぎるのを意識し、いつまでも残るものでありたいと、心から願います。

ですから私は、巨匠たちの晩年の自画像に感銘を受けながら、青年期の自画像に、なにか言葉にあらわせない価値あるものを感じます。若い藤田のすました絵にも。そのとき藤田自身は、ひたすら生きていたのかもしれません。フランスという憧れの場所にあって、無我夢中で過ごしていたのかもしれません。軽く見られまいと、精一杯、背伸びしていたかもしれません。そうしたことを思うと、よけいに命のかけがえのなさのようなものを感じます。

西欧絵画では、そんな、人生の花ざかりの時期の絵にも、その背景を構成する要素として、頭蓋骨を描く伝統があります。自画像にも書き込まれます。気味悪く、どくろが、人物の横で顔を向けています。メメントモリ。死を忘れるな。このことが、人間が今の自分を記録するときに、それに伴う、胸が切なくなる事実、また、まじめな事実として心にとめるべきものとされます。

しかし、聖書はさらに深い事実を知らせてくれます。

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなる。

イエス・キリストが、私たちのために死に、私たちのために生きてくれている。私たちは今、イエス・キリストのうちにある。別の言い方をすれば、私たちは、過ぎ去り、消えゆくままにされていない。私たちに新しい自画像が与えられている。私たちの傍らに書き込むべき、もう一人の存在がある。それは蓋骨ではなく、復活のイエス・キリストであると。

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