もう一度見つけたぞ、永遠を

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宇野元によるメッセージ

ある人が入院して、西宮市にある病院を訪問していたことがあります。その病院は、海のすぐ近くにあります。今は新しくなりましたが、ちょうど工事中の古い建物にありました病室の窓から、浜の波打ち際の様子がよく見えました。

穏やかな海です。沖の方には、小さく船が見えます。また、水上スキーを楽しむ人の姿が見えます。浜辺にはヤシの木が植えられていて、所々にベンチが設けられています。人々の憩いの場にも用いられています。犬を連れた人や、家族や、子どもたちがいます。

晴れた日の午後、親しい人のベッド越しに、まぶしく光る波が、大きな線を描いて岸と接しているのを眺めておりましたら、なつかしい言葉が浮かびました。アルチュール・ランボーの詩の言葉です。

もう一度探し出したぞ。

何を?永遠を。

それは、太陽と番った海だ。

(堀口大學訳)

波打ち際で、そこまで見えている陸地が海から来る線で消える。慣れ親しんでいる世界が、永遠と境を接しているようにも思えます。むかしおぼえた、堀口大学によるこの詩を思い出すきっかけになったのでしょう。この世界に永遠はあるのか?あるとすれば、どこにあるのか?ランボーの詩は、キッパリと、「探し出した」と言い切り、断定的に答えを与えます。私の心にスポンジに水が染み込むようにしみました。

もう一度探し出したぞ。

何を?永遠を。

それは、太陽と番った海だ。

今、私はこれを別の言葉に言いかえて、自分の心に語ります。

――永遠を探し出したぞ。

どこに?イエス・キリストに。

海を眺めるとき、私たちは人生を重ねますね。そして人生を、二つの側面をもつものとして見つめます。時間的な側面と、永遠の側面をもつものとして。勝手な想像ですが、堀口によるランボーの言葉のうちには、苦いものが含まれているような気がします。若い心の破れかぶれのようなものを感じます。海と太陽がカップルになるのは、私たちの目にそう見えるだけです。海と太陽は連続していません。海は、どこまで行っても海です。こちらにある人生と、むこうにある人生は、単純に連続しているわけではありません。けれども、私たちはその接点を探さないわけにはゆきません。どうにかして接点を見つけたいと思います。なぜなら、もし永遠とつながっていないなら、こちらにある人生は、無、ゼロだからです。そしてもし人生が無であるなら、ゼロなら、私たちは生きることができません。あるいは、人生はゼロであると思い定めて生きています。けれども、もしほんとうにゼロであるとしたら、耐えることができません。

ご一緒に心にとめたいと思います。そんな私たちに、イエス・キリストの言葉が贈られています。

わたしは復活であり、命である。

きょうはイースター、イエス・キリストの復活を記念する日です。キリスト教会では、この日をクリスマスとともに、一年の中でも特別な時として覚え、お祝いします。私たちの苦難を引き受けたイエス・キリストが、十字架の死ののちに復活した。このことは、私たちにとって、どういう意味を持っているのでしょうか。

イエス・キリストの復活。それによって、水平線を超える橋が築かれている。つながらないはずの海と太陽が結ばれている。私たちの今と永遠。この二つが堅く結び付けられています。分かち得ないものとされています。今のときと永遠は、切り離されない。イエス・キリストの復活によって、この恵みが与えられています。

そして、だから、困難なところを通るときも、希望をもち、愛する心を保つことができる。涙するときも、励ましがある。心がゆれるときも、確かさとともにあることの平安を与えられます。「たとえ死の陰の谷をゆく時も、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」(詩編23,4)。聖書が語る幸いを味わい知るものとされます。

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