徴税人ザアカイ

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聖書の言葉

イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

新約聖書 ルカによる福音書 19章5,6節

吉田謙によるメッセージ

今、お読みしたのは有名な「ザアカイ物語」の一節です。エリコという町にザアカイという徴税人のかしらがいました。徴税人は、当時のユダヤにおいては大変に嫌われていた職業でした。それには主に二つの理由があったと言われています。当時のユダヤはローマの支配下に置かれていましたから、当然、税金は全てローマに支払わなければなりません。ですからユダヤ人でありながら、占領軍の手先となって税金を取り立てる徴税人は、「売国奴!」と罵られていたのです。それだけではありません。彼らは、税を取り立てる際に、規定以上の税を取り立て、私腹を肥やしていたのです。ザアカイは、そういうあくどい徴税人のかしらでした。

そのザアカイが住むエリコの町に、ある日イエス様がお出でになりました。今日の聖書の箇所には、ザアカイは「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」と言われています。彼は背が低かったのです。そのために群衆に遮られて、イエス様が道を通って行かれる姿を見ることができませんでした。ここに、エリコの町の人々とザアカイとの関係が暗示されています。これは、背が低かったので前に人々がいると、その向こうを見ることができない、という単なる物理的な問題ではありません。彼が人々と親しく、良い関係にあったならば、たとえ彼が背が低かったとしても、人々は彼に場所を譲り、彼を前の方へと促してくれたことでしょう。ところが、誰もそういうことはしてくれませんでした。むしろ、「群衆に遮られて見ることができなかった」という言葉からは、人々は故意にザアカイの前に立ちはだかり、見えないようにしていたのではないか、ということが伺えます。ここにエリコの町の人々のザアカイに対する敵意、憎しみを見て取ることが出来るのです。

ところでザアカイは、「イエスがどんな人か見ようとした」と言われています。イエス様の評判は、このエリコの町にも伝わっていたようです。きっとザアカイも、その噂のイエス様を見てみたいと思っていたのでしょう。しかし彼の思いは、群衆の思いとは少々違っていたと思います。群衆は、イエス様のことを、このお方こそ待ちに待った救い主ではないか、と期待をもって見つめていたのです。ところがザアカイがイエス様を見たいと思ったのは、そういうことではなくて、このお方が、自分と同じ徴税人を嫌ったり蔑んだりするのではなくて、むしろ迎え入れてくれた、という噂を聞いていたからです。

しかし群衆の敵意によって邪魔された彼は、「走って先回りし、いちじく桑の木に登った」と言われています。ザアカイは、イエス様が通っていかれる道端の木の上から、群衆に邪魔されることなくイエス様を見ようとしたのです。ここには、「何とかしてイエス様を見たい!」という彼の必死さが表れていると思います。ザアカイの心の奥底には、まだ自分でも気づいていないイエス様の憐れみを求める思い、救いを求める切なる叫びがあったのです。

ところがイエス様がいちじく桑の木にさしかかった時に、場面は思いもよらない方向へと展開していきます。イエス様は、そういうザアカイに向かって、「急いで降りて来なさい」と言われました。イエス様は、ザアカイのことをすべて知っておられました。彼が徴税人であることも、人々から嫌われていることも、またそのことのゆえに開き直って、更に人々を苦しめていたということも。ところがイエス様がザアカイに向かって語られたのは、「生活を改めなさい」ということでも、「これまでの不正を全て償いなさい」ということでもありませんでした。イエス様は「急いで降りてきなさい」と言われたのです。

なぜザアカイは急いで降りて来なければならなかったのでしょうか。それはイエス様を家にお迎えするためです。この後、イエス様は、「きょう、あなたの家に泊まることにしているから」と宣言なさいました。家とは生活の場です。そこには、その人の人生があります。その人の罪もあります。ザアカイの家には、不正によって蓄えられた富があったことでしょう。そこにイエス様をお迎えするのです。それは、きれいにしてから、というのではありません。罪に汚れたまんまで、ともかくイエス様を家にお迎えするのです。それは、イエス様との命の交わりを確保するためです。イエス様が「泊まりたい」と言われるのは、ただ「宿をかして欲しい」ということではありません。ザアカイは、イエス様と共に食卓に着き、イエス様と語り合います。イエス様と共に時を過ごすのです。信仰生活とは、イエス様を知る生活と言い換えることも出来るでしょう。それは単に知的にイエス様を知る生活ではありません。そうではなくて、イエス様と共に時を過ごし、イエス様と交わり、イエス様としっかりと結び合わされる、ということです。そのイエス様との命の交わりの中で、きっとザアカイは気づいたことでしょう。「自分がこれまで、本当に慕い求めていたのは、これだったのか!」と。それは、お金でも、地位でも、名誉でもありません。それは、自分を丸ごと包み込んでくれる神様の真実の愛です。ザアカイは、イエス様との命の交わりを通して、そのことに気づかされたのです。このイエス様との出会いは、ザアカイの凍りついた心を一挙に溶かしていきました。その時に彼は全く新しく生まれ変わっていったのです。

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