放蕩息子のたとえ

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聖書の言葉

そこで、彼は我に返って言った。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。」そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

新約聖書 ルカによる福音書 15章17~20節

吉田謙によるメッセージ

今、お読みした聖書の箇所は、イエス様がなさった譬え話の一部分です。譬え話というのは、実際にあった話というのではなくて、ある真理を私たちに伝えるために、イエス様がある象徴的な物語を語られた、ということです。では、この物語を通して、イエス様はいったい何を私たちに伝えようとされたのでしょうか。それは神様の愛です。イエス様は、この譬え話を通して、神様の愛はこういうとてつもなく大きな愛なのだ、と私たちに教えようとされたのです。この譬え話に登場する息子は私たちのことを表しています。そして、この父親は神様のことを表しています。

ある息子が、父親が死んだ時に自分が相続することになっている遺産を前もって分けて欲しいと願い出ました。普通なら、こんな自分勝手な願いが許されるはずはありません。ところが、この父親は、彼の望み通りに財産を分けてやりました。すると、この息子は、何日もたたないうちに、それを全部お金に換えて、遠い国へと旅立っていったのです。これが彼の本来の願いでした。彼は父親の束縛から自由になり、自分の好きなように生きてみたかったのです。そうやって遠い国に旅立った彼は、父親からもらった財産を湯水の如く使い果たし、放蕩に身を持ち崩してしまいました。悪いことは重なるもので、そこに飢饉が起り、彼は食べるにも困りはじめ、とうとう落ちるところまで落ちてしまったのです。人間は本当に愚かですから、失わないとその恵みが分からないということがあります。今日の譬え話に登場する弟息子は、全てを失い、貧困と失意のどん底を経験して初めて、父親のもとで当たり前のように過ごしていた日々が、いかに恵まれた日々であったかを知ったのです。そして、その時初めて彼は自分の過ちに気づき、ついに父のもとに帰る決心をしたのでした。

この息子は、帰る間じゅう、ずっと父親に言うべき言葉を、何度も何度も繰り返し唱えていたのでしょう。「お父さん、もうわたしは息子と呼ばれる資格がありません。」その通りです。自分から進んで縁を切り、家を出て行ったのですから、帰らせてもらえるだけでも本当は虫のいい話でしょう。「せめて雇い人の一人にしてください。」これは筋の通った話なのです。ところが、父親の方は、この弟息子がボロボロの姿になってトボトボと帰って来る姿を、まだ遠く離れていたのに見つけ出し、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した、と言うのです。まだ遠く離れていたのに見つけたというところに、この父親がいつも息子の帰りを待ち続け、一日に何度も息子が出て行った方角を見つめていたことが示されています。だからこそ、この父親は、戻って来た息子をいち早く見つけることができたのでしょう。そして、「あれは息子だ!」と気づいた瞬間に、この父親は息子のもとへと走り寄り、息子を思いっ切り抱きしめて、接吻して止まなかったのです。息子の方は、「こう言おう」と思っていたことを語り始めます。しかし、この父親はそれを遮り、あるがままでこの息子を息子として迎え入れました。私たちは、この常識を越えた、まるで溺愛とさえ言えるほどの神様の愛に対して、ある戸惑いを覚えると思います。私たちは子供を叱る時に、こういう接し方をするでしょうか。教師が生徒を教える時に、こういう接し方をするでしょうか。決してしないと思います。こんなことをしたならば、甘やかすことになり、余計に駄目な人間になってしまう。これが私たちの常識です。そういう意味では、この神様のなさり方は、私たちの常識を遙かに超えているのです。けれども、これは裏を返して言えば、こういう常識を遙かに越えた、とてつもなく大きな愛でなければ、罪深い私たちが救われることはなかった、ということです。

この父親は、息子が立派にしもべとして仕え抜いている姿を見て、「よし、これならいいだろう」と判断し、彼を再び息子として迎え入れたわけではありません。また心をすっかり入れ替え、別人になって帰ってきたから迎え入れたわけでもありません。そうではなくて、ただボロボロになって帰って来ただけで、大喜びで迎え入れたのです。これが神様の真実のお姿です。立派な業績を積み上げなければ認めてもらえないとか、才能豊かで清く正しく生きている人だけが受け止めていただけるというのでは決してありません。この放蕩息子のように、「父のもとへ帰ろう」「神様のもとへ帰ろう」と決心するだけでいい。それだけで、神様は喜んで私たちを受け止めて下さるのです。なんという幸いでしょうか。

この神様の愛は、ごく一部の信仰のエリートたちだけに与えられるものではありません。あなたも、この神様に愛されています。あるがままのあなたが愛されているのです。ラジオをお聞きのあなたも、今日、この神様の愛を素直に受けとめて、全く新しい人生を生き始めてみませんか。

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