神の言葉を見出すとき

ラジオ放送 キリストへの時間のトップページへ戻る

聖書の言葉

主の神殿に寄せられた献金が取り出されている間に、祭司ヒルキヤがモーセによる主の律法の書を見つけ、書記官シャファンに、「わたしは主の神殿で律法の書を見つけました」と言った。

旧約聖書 歴代誌下 34章14~15節

石原知弘によるメッセージ

部屋の片付けなどをしていたときに、埋もれいていた大切なものが出てきたという経験をされたことがあるでしょうか。今お読みした聖書の言葉は、そのような出来事を伝えています。時ははるか昔、紀元前7世紀ごろのことですが、ヨシヤ王という王様の時代に、エルサレムの神殿を修理していました。エルサレム神殿は、ダビデ王、ソロモン王以来の大切な場所で、そこには聖書を入れた大切な箱が納められていたのですが、その後はしばらく、聖書はほこりをかぶってしまっていたようです。それが、ヨシヤ王が神殿を修理していたこのとき、なんと発見されたのです。この発見に、ヨシヤ王は驚きました。それは、ただ聖書が出てきたという驚きではなく、聖書の言葉を読んで、その内容に驚いたということです。そこには、私たち人間の罪を鋭く指摘する言葉がありました。ヨシヤ王は、涙するほどにその神の言葉を真剣に受け止めました。そして、悔い改めました。すると神さまは、そのヨシヤ王の願いと祈りを聞いてくださったのでした。

多くの人が、キリスト教信仰とは、立派な生活を送ることだと考えておられるかもしれません。確かに、それはすばらしいことです。しかし、キリスト教信仰のもっとも大切な点は、今、目の前に発見した神の言葉に、心砕かれる、ということです。今までの歩みがどれだけ罪深いものであったとしても、今、目の前に現れた神様の言葉に心を砕かれ、信じるならば、その人は神さまの前でよろしいといっていただけるのです。逆に、今までどれだけ立派なことをしてきたとしても、今、目の前の神様の言葉を無視してしまうなら、それはとても残念なことです。ヨシヤ王という王様も、実はイスラエルの歴史の中でまれにみる立派な王様で、すばらしい業績を残した人でした。しかしヨシヤ王が神様に認められたのは、彼が、神様の言葉に心を打たれたからでした。人間の目には立派に見えることも、神様の目から見るならば、不完全なものであり、欠けの多いものです。ヨシヤ王はそのことに気づかされたのです。そしてヨシヤ王はただ、発見した神様の言葉の前に涙するしかありませんでした。しかし、それがヨシヤ王の信仰であり、それこそが神様の求めておられるもっとも大切なことだったのです。

そして、この信仰は、新約聖書の中で使徒パウロも教えた信仰であり、プロテスタント教会のルーツである宗教改革の時代には、マルティン・ルターという人によっても教えられた信仰でした。パウロもルターも、御言葉の発見に心捉えられた人でした。「行いによらず、ただ信仰によって救われる。」それは、今までどれだけ立派なことを積み上げてきたかではなく、今、神さまの言葉を前にして、どのように応えるかということでした。

信仰生活とは、そのような御言葉との出会いをいつも待ち望みつつ生きることです。日曜日の礼拝は、まさに御言葉との出会いのときです。一週間、どんな日々を過ごしてきたとしても、大切なことは、礼拝で御言葉を発見することなのです。もちろん、日曜の礼拝だけではなく、御言葉に出会うときはいつでもあります。それはときに、思いがけない発見として起こることもあるでしょう。去年のことですが、私にもこういうことがありました。部屋の片づけをしていた妻が、一本のビデオを見つけたと、ニコニコしながら言うのです。何のビデオかと思って見てみると、10年前に教会の集会で私が信仰の証をしているビデオでした。それは、私が洗礼を受けてまだ間もない、大学生のときの映像でした。自分のビデオを見るのは恥ずかしいものですが、最後まで見ました。10年前の私は、最後に聖書の言葉を読んで終わりました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(新改訳聖書・ヨハネ福音書3章16節)」それは、私が教会で初めて覚えた聖書の言葉でした。もちろん、今でもよく知っている聖書の言葉ですが、10年前の記憶と共に、新鮮な響きをもって私の心に迫ってきました。教会でこの御言葉を聞いて、本当にうれしかったことを思い出しました。この御言葉に心打たれて、私はクリスチャンになったのです。そして、10年たった今また、同じ御言葉に心を捉えられたのです。

すでにクリスチャンとして歩んでおられる方も、どうぞ今新たに、御言葉との出会いを求めていただきたいと思います。10年、20年と、信仰生活を積み上げていくことはすばらしいことですが、それもまた、今このときの御言葉との出会いのためにあるはずです。私も信仰生活10年以上がたち、そして牧師になって過ごしていますが、いつまでも御言葉との新鮮な出会いの喜びを忘れないでいたいと思っています。そして、クリスチャンではない方、教会にはまだ行ったことがないという方も、ぜひ聖書の言葉を発見していただきたいと思います。あるいは今日はじめてこのラジオを聞いているという方もいらっしゃるでしょうか。そのような方にとって特に、今このときが、神の言葉の発見のときとなりますように。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

関連する番組