聖書の言葉
わたしの時はあなたのみ手にあります。(口語訳)
旧約聖書 詩編 31篇15節
宇野元によるメッセージ
心より、新年のご挨拶を申し上げます。
新しい一年の時をまえにして、こんなイメージが浮かびます。真っ白なゲレンデをスキーですべりだすように、さあ出発しよう。美しさに魅かれながら、一方でこんな風に思います。年が明けても、多くのことは昨年からつづいている、おなじ課題を担っている。2018年を迎えて、この年への期待があります。と同時に、不安があります。すでに抱えているものがたくさんある、それに将来は不確実だという思いがあります。
ゲーテが、こういうことを書いています。
われわれは勇をふるって、しっかと手綱を握りしめ、この岩、あの崖を避け、右に、左に、車を御して行くほかにすべはない。どこへ行くか、だれが知ろう。どこから来たのかさえ、馬はほとんどおぼえてはいない。
ゲーテ晩年の自叙伝、『詩と真実』の結びの言葉です。ながい人生、多くの経験から得た、結論のように記されています。あるいは、年を経ても変わらない思い、年を重ねるほどに、ますます深まる思いが記されているようです。現代では馬車ではなく、自動車ですから、「どこへ行くか、だれが知ろう。ともかく、この急なカーブ、あの信号に注意して、右に、左に、ハンドルを切りながら進むほかない。」こうした思いは、私たちの心にしみ込むものがあるでしょう。
けさの聖書。「わたしの時はあなたのみ手にあります。」わたしのとき。わたしの人生のとき。今、こうして私が皆さんにお話しし、皆さんが聞いてくださっている今この瞬間も、これから出会う未来の時も、神の手の中に置かれている。私たちは何らかの運命の手の中にある、というのではなく。また、冷たい偶然の中にほうり出されているのではなく。神様の愛の手の中にある。そう語られています。
神様の手、それはどんな手でしょう?こんなふうに説明することができるでしょう。私たちを支え、守ってくれる神のお働きを意味していると。でも、そんな風にお話しするだけでは、きっと不十分でしょう。抽象的でしょう。「あなたのみ手」、それはぼんやりと語られているわけではありません。聖書は明確に、そして抽象的にではなく、具体的に教えてくれています。神のみ手、それは、イエス・キリストにおいて示されていると。クリスマスに来られた。そして、自ら苦難を背負われた。そのすべての歩みは、私たちの人生を背負うためであったと聖書は証言しています。イエス・キリストによって、神の手が示されている。家族を守る父の手、やさしく配慮ある母の手、頼りになる友の手、そんな神様の見えない手の中に私たちは置かれていると。わたしの新しい年は、この手の中にあると。
「わたしの時はあなたのみ手にあります。」この短い言葉をご一緒に心に留めたいものです。この言葉は、私たち一人一人の人生の秘密を解き明かしてくれるものです。すなわち、私たちの時は、私たちがひとり、悪戦苦闘する場所ではない、ということを教えてくれます。私たちは深い顧みの中に置かれています。
「わたしの時はあなたのみ手にあります。」この言葉は、私たちが自分のことを自分で片付けなければならない、一人で頑張らなければならない、そのような時は終わっていることを知らせてくれます。
多くのことを抱えて一年を迎えています。そして、皆さんも私も、この年もたくさんの課題や問題のなかを導かれるでしょう。けれども、その一つ一つはおぼえられています。けさの言葉をときどき口にしてみてはいかがでしょう。「わたしの時はあなたのみ手にあります。」そう、見えない方に語りかけてみる。そうすれば、勇気をもって始めることができます。