十字架の愛

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聖書の言葉

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

新約聖書 マタイによる福音書 27章46節

大野桂一によるメッセージ

街に出ると、十字架のネックレスを着けた方に、出会うことがあります。

十字架は、イエスが磔にされた処刑であるとご存じの方がほとんどだと思いますが、何故、古代の中でも最も残酷な処刑であるイエスの十字架を、格好良いものとして、胸に着けられるのでしょうか。

紀元30年頃のお話です。イエスは30歳ごろからの3年余りの短い間でしたが、権威をもって神の教えをなし、神の愛を語り実行され、素晴らしい奇跡も行われ、弟子の集団も出来ました。イエスは弟子たちを愛され、弟子たちもイエスを愛し信頼していました。イエスの評判は、ユダヤの宗教家、学者、指導者等の嫉妬や、反感、怒りを買い、神を冒瀆する者として裁かれ、ユダヤの指導者たちの偽証により、当時の支配者ローマ帝国に背く政治犯として捕えられ、十字架につけられて殺され、墓に葬られました。

十字架上でイエスは叫ばれました。「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』」。これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」

十字架上で、イエスは絶望の叫びをあげておられます。

イエスが捕えられる数時間前の最後の晩餐の席で、弟子のユダは裏切りの意思を固めて、出て行きました。筆頭弟子のペトロは、皆が躓いても自分は躓きません。ご一緒に死ななければならなくなっても、あなたの事を知ら無いとは言いませんと豪語しました。ところが弟子たちは、イエスが捕えられ時に、皆逃げてしまいました。豪語したペトロは、お前もイエスの仲間だと三度も言われ、三度ともイエスは知らないと否定しました。弟子たちは怖かったのです。自分の身を守りたかったのです。いざとなると、イエスの愛と信頼を裏切ったのです。

私たちは、誰でも愛し信頼しあって生きて行きたいと願います。ところが罪の為にそれが出来ないのです。罪により打算が、エゴが働くのです。人の愛は自己中心の愛です。ギブアンドテイクの愛です。敵を愛することは出来ません。聖書は、神なしの人の愛だけで、人間は幸福に生きることが出来るのかと問うているのです。キリスト教では、神と共に生きるように創造された人が、神との交わりのない状態を罪と言います。聖書では、神の愛はアガペー、人の愛はフィリアと区別しています。神の愛、アガペーの愛は、愛される価値のない者をも愛される愛です。敵をも愛される愛です。その神が、神の敵である私たちの罪を総てイエスに背負わせ、イエスを罪人の代表として裁いておられるのが、イエスの十字架です。

イエスは、十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、情けない絶望の叫びをあげておられます。

神の独り子イエスが、父なる神に見捨てられ「神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」と恨み言でも言っているような言葉を吐いておられるのです。イエスは、神に見捨てられた者として死んでおられるのです。イエスは、弟子に見捨てられ、あろうことか父なる神に見捨てられ、本当に情けない絶望の叫びをあげて死なれ、墓に葬られました。罪のないイエスがどうして、このような十字架の死を遂げなくてはならなかったのでしょうか。

神は罪あるすべての人を救うために、人の罪をすべてイエスに背負わせ、イエスを罪人の代表として十字架で処刑されたのです。罪のないイエスは、私たちの身代わりに、罪を背負い、罪人として十字架で刑罰を受けられたのです。

十字架上でイエスが耐えておられるのは、肉体的な死の苦痛だけではありません。神から見放される霊的な死の恐怖に耐えておられるのです。イエスの絶望の叫びは、本来、罪人である私が、ラジオをお聴きの皆様が、叫ぶべき言葉であり、神に見放されて死んでいくべきであります。その私たちの罪の身代わりとして十字架で死んで下さった主イエスを信じる人は、主イエスが既に私たちの身代わりとして十字架刑を受けてくださいましたから、神は、私たちの罪は、処分済みとみなして下さり、私たちは罪なき者として、神との交わりを回復してくださるのです。この世で生きている限り、私たちは現実には罪を犯しますが、そのような私たちを、神は罪なき者とみなしてくださるのです。

このように十字架上の死をもって、人の救いを完成された主イエスを、神はよみがえらされました。この主イエスを信じる人は、神を愛し、主イエスを愛し、隣人を愛し、また多くの神の恵みに感謝しながら、与えられた人生を、積極的に人格的に生かされ始めるのです。やがて肉的命は死を迎えても、霊的命はイエス・キリストと共に生きるのです。主イエスの十字架は、罪人である私たちを救う、神の最も大きな愛の出来事なのです。こうして十字架は愛のシンボルになったのです。

皆様が、この愛のシンボルである十字架を心に掲げて、不安や絶望ではなく、希望と平安に満たされた、実りある人生を送られますように、心よりお祈りいたします。

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