この電話は取り上げられない

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聖書の言葉

主よ、あなたはわたしを究め

わたしを知っておられる。

座るのも立つのも知り

遠くからわたしの計らいを悟っておられる。

歩くのも伏すのも見分け

わたしの道にことごとく通じておられる。

旧約聖書 詩編 139編1節

宇野元によるメッセージ

ある働き盛りの人が、倒れて、入院しました。突然のことです。その日から、病院の白い部屋が彼の居場所になりました。公衆電話は使えません。携帯電話も部屋に置くことが許可されませんでした。いつも持ち歩いていましたから、取り上げられてしまったみたいです。お見舞いは、ごく限られた人だけが許され、わずかな面会の時間も制限されました。

毎日、よく動き、多くの人と言葉を交わしていた。それが、救急車で運ばれて、状況が一変してしまったわけです。それまでの当たり前の毎日が、まるで現実ではなかったかのように思われます。いまは、ベッドの上に仰向けになっていて、外の世界とつながるものとしては、窓があるばかりです。彼は目をあげて、窓の向こう側にある世界を見つめます。雲が流れています。ひろい世界、流れる雲、その向こうから、自分を見ている存在があるだろうか?こんな片隅にいる自分に、だれか目を留めてくれる存在がいるだろうか?そんなことを思います……自分を見てくれる人がいる。互いに話せる人がいる。なんということもない挨拶をかわせる。もうそれだけで、どんなに幸せなことでしょう。そんな生活はどこかに行ってしまって、ポツンと、暗い洞窟の中にいるように感じています。もし皆さんが、彼に言葉を伝えることが許されたとしたら、どんな言葉を持ってゆくでしょう?

聖書から、けさは詩編の一篇を選びました。注目すべき知らせが語られています。

主よ、あなたはわたしを究め

わたしを知っておられる。

神は、私たち一人一人をご存知で、一人一人のことを心にとめてくださっている、と語られています。神は、私たちを、海辺の砂を眺めるように眺めておられるのではない。あわのように、現れてはすぐ消えてしまうもののように見ておられるのではない。一人、一人をごらんになり、心にかけておられる。私を究めておられる。私の胸のうちをご存知であると語られています。じっと、窓から外をみつめているようなとき、私たちはまた、こんな風に思うものですね。――いま、私がこうしている間にも、たくさんの人が生まれているだろう。そして、たくさんの人が死んでゆく。自分もそんな命の流れの一部、ほんの小さな点のようなものにすぎない。「そうではない」と語られています。神は一人一人のことに深く通じておられると。

座るのも、立つのも知り

あちらこちら忙しく動き回っているときも、そんな私たちをご存知である。伏しているとき、ベッドに横になっているときも、その私たちを顧みてくださっている。注意深く、私たちの状況を的確に把握してくださっている。

歩くのも伏すのも見分け

わたしの道にことごとく通じておられる。

突然の入院。そのような体験をするとき、ふさわしい言葉であると思います。また、新しい一日をはじめるときにもふさわしいでしょう。紙に書き写して、どこかに貼っておくのによいでしょう。私たちが、立つのも、座るのも、歩くのも、横になるのも知ってくれている存在がある。私たちを心にとめ、私たちと共にいてくれる存在がある。

このことを、目でみることはできません。私たちは、自分を見てくださっている方を見ることはできません。しかし、聖書の言葉が与えられています。これを読むことができます。読み、心にとめることができます。そして、私を顧み、私の思いを理解している方、私自身よりも私のことをよく知っている方が、私と共にいてくれる。このことを信じることができます。私たちのために御子を贈り、小さな私たち一人一人に心を寄せていることを証しておられるからです。イエス・キリストが、一人一人の人間を心にかけられた。一人一人のために、自ら苦しんだ。自ら苦難を引き受けた。私のために、一人ぼっちになってくれた。

ですから、私たちは一人ではありません。病院にいても忘れられていません。一人で食卓につくときも孤独ではありません。歩くのも、伏すのも知っておられる方が共にいてくれます。

私たちはみな、特別な電話を与えられています。どこに置かれていても、この電話が取り上げられることはありません。いつでも掛けることができます。心をむけ、思いを申し上げる相手がいます。

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