キリストの命

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聖書の言葉

キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 1章5節

宮﨑契一によるメッセージ

私は以前、ある一冊の本を読みました。それは『愛する人を失うとき』という題の本です。アメリカの大学で、宗教学や哲学を教えているシッツァーという教授の書いた本でした。日本語に訳されたものです。

『愛する人を失うとき』。このタイトルにもありますように、この本を書いたシッツァーは、ある日突然、愛する人を失う、という喪失の経験をします。

シッツァーはある日、自分の家族と、ある一つの集会に出席をしていました。自分の母親と自分の妻、そして、4人の子供たちが一緒でした。家族は、その集会を十分に楽しんで、また家に戻るために車に乗り込みます。

あたりはすっかり暗くなっていました。車に乗って10分ほど経ったとき、ハイウェイを猛スピードでこちらに向かって来る対向車に、彼は気づきます。彼は車の速度を緩めましたが、向こうはそうする気配はありません。その車は、そのまま対向車線をはみ出して、教授の車と正面衝突をしてしまう、そういうことになりました。その後で、教授が息を吹き返してみると、そこには、妻と四歳の娘、そして自分の母親の意識の無い折れ曲がった体がそこにあった、というのです。その事故によって、シッツァーは一瞬にして、自分の妻と自分の母親、また一人の小さな娘を失うということになりました。猛スピードで走って来た相手は、結局その時酒に酔っていた、シッツァーは後でその事実も知らされることになります。

愛する人を失う、ということ。それは彼にとって、突然起きたことでした。その喪失(失う)ということの悲しみについて彼は、「喪失という拒絶することのできない圧倒的な現実」と言っています。拒絶することのできない圧倒的な現実、愛する人を失うことは、そのようなことだと彼は言うのです。また、彼は、「破滅的な喪失は、定義上、回復不可能な喪失のことなのである。」このようにも言っています。回復不可能な喪失、それを抱えて、その人が生きることになります。また彼は、自分自身についてこうも言っています。「私は、まだ喪失を『克服して』いない。私は、まだ『回復して』いないのである。私は、いまでも私の人生が違っていたらと願い、三人が生きていればと願う」。私はまだ、克服していない、回復していない。今でもあの三人が生きていればと願っている。愛する人を失うこと、その事実は、どれだけ時間が経っても、その人から消えることのない現実、と言えます。

彼がここで向き合わされたことは、要するに、死です。死の持つ圧倒的な力、ということでした。問題は、私たち誰もが向き合わされる死、という出来事にあります。彼は愛する者の死に向き合わされました。彼はこう言っています。「私たちが直面する最大の敵は、死そのものであると、私は理解するようになった。死は、人も物もすべて無にしてしまうからである。」

最大の敵は、死そのもの。死は、人も物もすべてを無にしてしまう。これは、この人の言う通りだと思います。私たち人間は、死ということに対して本当に無力です。それに抵抗することはできません。死を打ち破る、死に勝利する、などということは非常識とさえ言えます。ただ死を自分の運命として受け入れること、死に従うこと、私たちにはこのことしかできません。シッツァーは、愛する人を失う、という中で、死の圧倒的な力に向き合わされています。そして、その中で彼は苦しむのです。

ただその中で、彼は少しずつ、立ち直っていくことになります。立ち直ることができたのは、単にその出来事を忘れることができたから、ということではありません。それは、死を超えた命、死に勝利をした出来事に、その心を少しずつ向けることができたからです。彼は、「死は、本当には終わりではない」このように言っています。むしろ彼は、「命が最終決定権を持っている。」このようにさえ言うのです。死は決してその人の終わりではない。むしろ、命が、その最終決定権を持っている、彼は死に勝利した命を覚えています。

何で彼はこう言うことができるのでしょうか。それは、彼が、ただ一人死を克服された方、十字架の死から復活されたイエス・キリストを信じるようになったからです。死は終わりではない。生命が最終決定権を持っている、「イエスの死と復活がそれを可能にした。」。彼はこう言います。シッツァーは、十字架の死から復活をしたキリストに、少しずつ、自らの希望を見るようになるのです。

もちろん、彼から、愛する家族を失った悲しみが取り去られる訳ではありません。ただ、彼は深い悲しみの中で、イエスが死からの復活によって勝ち取られた勝利を、少しずつ味わうようになります。このキリストが彼にとっての希望となりました。死ということは、決して私たちと無関係ではありません。私たちが向き合わなければいけない現実です。しかし、聖書はその中で、ただ一つの希望、復活のキリストを私たちに伝えています。

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