父親の眼差し②

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聖書の言葉

 【都に上る歌。ダビデの詩。】

主よ、わたしの心は驕っていません。

わたしの目は高くを見ていません。

大き過ぎることを

わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。

わたしは魂を沈黙させます。

わたしの魂を、幼子のように

母の胸にいる幼子のようにします。

イスラエルよ、主を待ち望め。

今も、そしてとこしえに。

旧約聖書 詩編 131編

山中恵一によるメッセージ

父親の眼差しというシリーズでお話させてもらってます。神港教会の山中です。今回も、子育てお父さんの目線から、聖書の言葉を紹介させて頂きます。今年の5月半ばから、ついにですね、1歳9カ月のうちの息子は、晴れて、おっぱい卒業とあいなりました。いわゆる乳離れ、というやつです。卒乳ともいうそうですが。産まれてから、ずうっとですね毎日欠かすことなく続けて来たことを止めるわけですから、妻にしてみれば、これは、すんなりとはいかないだろうと、ある覚悟をしながら、そこに踏み切ったようです。ところがですね、これが、あんがい、うまくいきまして、なかなか寝付けないこともあるようですけど、それでも、おお泣きをしてパニックになるようなこともなく、順調に大人の階段を上っているようです。

これまでは、就寝前のおっぱいを飲むために、彼は母親の上に覆いかぶさるようにして、寝ていました。それが、おっぱいなしになって、いったいどんな態勢で寝付くのか、疑問でした。卒乳して、彼が寝付く態勢がどうなったか?というと、おっぱいがもらえなくなっても、あいかわらず、母親の胸元に乗っかるようにして、寝ているんですね。おっぱいが飲めようが、飲めまいが、母の胸というのは、彼の和みスポットなんでしょう。

さて、今日、紹介したい聖書個所ですが、これは詩なんですけれども、この詩を書いた人は、こんなことを言っているんですね。「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように母の胸にいる幼子のようにします」ここに出て来る「幼子」と翻訳されている言葉は、「乳離れした子供」という意味の言葉なんです。うちの子供と一緒ですね。まぁ、それは、さておいて、この詩編を書いた人は、「自分は、静かに、黙って、母親の胸の中で安らう子供のような、そんな心境でいたい!」とまぁ、こういうわけです。「こうしたいんだ!」と言っているということは、それは反対の状況が彼の周囲には広がっていたんだと思うんですね。どういうことかと言うと、静かに黙るどころか、うるさく騒ぎたくなる状況。母親に抱かれる子供の安心とは、反対の不安を駆り立てられてそわそわしてしまう、そんな状況。彼は、そういう中で、「いやいや、俺は、黙っておこう。安らかでいよう」こう言っているんだと思うんですね。

この詩は、この詩人が属するユダヤ民族が、大国に支配されて国を失い、かつての繁栄を失ったしまった暗い時代の歌である、と言われています。これまで先祖が築いてきた豊かさは見る影もないほど廃れてしまっている。しょぼくれた毎日のなかで生活しながら、多くの同胞たちが、この暮らしからなんとか抜け出したいと願っている。かつての栄光を取り戻したい、と多くの仲間が願っているそんな時代です。そんな中で、この詩人は、自分のスタンスを神様に向かってこのように告白しました。「主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大きすぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを追い求めません。」パッっとしない世の中というのは、色々な人が一発逆転を思い描く時じゃないかと思います。そして、自分の立場や境遇が、がらっと変わるような周囲の変化ですとか、このしんどい境遇から奇跡的に救いだされるということを願い、神様に祈るんだと思うんですね。聖書の中には、そういう信仰が確かにあります。神様の力。奇跡の力に期待して、一発逆転を願う信仰です。

ところが、今日のこの詩人は、ちょっと違うんですね。確かに、彼は、神様からの救いが来ることを待ち望んでいます。ところが、「わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません」彼は言います。「驚くべきこと」というのは、奇跡の業のことです。彼は言うんですね。私は、自分の分を越えるような大きい事だとか、奇跡じみた一発逆転なんてものを、追い求めないんだ。奇跡的な救いが欲しい!世の中がひっくり返るような救いが必要だ!そうやって、やいやいと神様に詰め寄る態度を、彼は、きっと、ミルクを欲しがる赤ちゃんみたいだ、とでも思っていたんでしょう。彼は、「自分は、そんな風に、おっぱいがもらえなかったら、泣き叫ぶ。そういう信仰とは、違うスタンスで、神様とお付き合いをするんだ。奇跡が起きなくても、大きい変化が起きなくても、いいじゃないか、と。ミルクがもらえなくても、これまで自分を育んできた母親のもとで安らかにいる乳離れした子供のようで私はありたい。神様は、私たちのことを母親のように育み愛して下さる御方ではないか。やいやい言わなくても、神様は私を大切にしてくださる。だから、そのことを信じて、あれやこれやと騒ぎ立てるのではなく、わたしは静かに安らぐ子供のようでありたい。」彼が、神様に大きな頼み事をしないのは、神様の救いを諦めているとか、期待していない、というんじゃないんですね。子供が母親を全面的に頼りきっているように、彼もまた神様を信頼しきっているんですね。ガチャガチャと騒々しい世の中にありながら、彼は、神様の懐に抱かれて、ここは、和むなぁ、というような生き方を目指しているんですね。こんな詩人のような心境でいることできたら、毎日は、すごいゆとりと余裕で満ちて来るのかなぁ、なんて思わされます。こんな思いでいれたらいいですよね。

2千年前のイスラエルと、簡単に比べることはできませんが、今の日本もなかなかにひどい先行き不透明の在り様です。ここから脱したい!そう思いたくなる困難や辛さが、身近な所にあるかもしれません。聖書からみなさんに語りかける神様を信じて、頼りとするとき、この暗い世の中で、救いを願いながら、安心して、その救いを待つ、そういう生き方ができるんですね。子供が、おっぱい抜きであっても母の胸に飛び込んで行くように、奇跡や大仰な救いを抜きにしても、安心できるのが、聖書の神様です。ぜひ、この神様を知り、神様のもとにある格別の和みを味わって頂きたいと思います。

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