誰のために生きるのか

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聖書の言葉

だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

新約聖書 マタイによる福音書 23章12節

吉岡契典によるメッセージ

マザーテレサは、「神様、私をあなたの平和の道具にしてください」と祈ったそうです。とても印象的な言葉です。

道具は、道具それ自体では、何もできません。ハサミは、ただ大事にポケットに入れられているだけだったり、いくら大事に刃を研がれていても、ただそれだけの状態では、道具として生かされません。耳かきをするのではなく、鉄を切るためにでもなく、紙を切ることに用いられるその時にこそ、ハサミはハサミであることの意味を、はじめて十分に果たすことができます。そして人間も、同じように神様の道具なのだと思います。

主イエスは、「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる」と言われました。最後の「高められる」という言葉は、元気づけられる、鼓舞される、そして高きに達するという言葉です。それは、夜更けに、夜空の高いところに星が昇っていき、その星が、空の一番高いところできらめき輝く。そんなイメージの言葉です。

主イエスは、この御言葉の前の部分では、律法学者とファリサイ派の人々は、二つの点で反面教師なのだと言われました。聖書の言葉を語りながら、「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せ」ていました。神の御言葉を通して人に生きる力を与え、命を与える。その一番の源となるはずの説教が、命と力を与えないどころか、かえって悩みを大きくし、人の苦しみを増し加える言葉になっていた。

そして、反面教師の第二点として、彼らのすることは、すべて人に見せるためのものだと言われています。それは、彼らが人々から先生と呼ばれて、宴会の上座(じょうざ)に招かれて挨拶されたいがためのことだと、主イエスは批判されました。主イエスが何度も彼らを偽善者だと呼ばれたように、彼らは、さも神様に仕えているようなそぶりを演じながら、実は、自分自身のために生きていたのです。

ところで、私が以前仕えていた仙台の教会では、玄関の天井が赤色でした。それは、設計士の方が、わざわざ意図的にそこに付けてくださった、イエス・キリストの十字架の血を意味する赤色でした。皆が、そのキリストの血潮の下をくぐって、その血によって赦された罪人して、教会堂に入ってくるのです。教会では、お互いを兄弟姉妹と呼びますけれども、教会には、性別や生まれや、年代はそれぞれ違えど、皆が主イエスの血によって救われたという一点において、お互いが皆同じ真の兄弟姉妹だと呼び合える関係があります。

そしてその教会では、皆が、イエス・キリストの十字架の血によって救われた、一人一人として、主イエス・キリストの生き方に学んで、その生き方を生きるように導かれます。

主イエスの十字架を説明する言葉として、旧約聖書のイザヤ書53章には、「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」という言葉があります。

ファリサイ派の人々が、自らを上へ上へと優れたものとして高めていこうとしていたのに対して、主イエスは反対に、わたしたちを癒し、救うために、十字架に架かられ、懲らしめられ、罰を受けて打ち砕かれた。いわば階段の一番下まで、主イエスは低くされ、へりくだられました。

階段を上へ上へと昇っていくような生き方の先には、息切れ状態が待ち構えています。主イエスは、聖書をそういう、成功主義的な生き方を指し示すものとして読んで、それを人にも押しつけて、成功者と落伍者を色分けしていくようなことは間違いだと、そういう考え方をする人々を鋭く批判されました。

そして、むしろ、主イエスがなさったように、階段を下へ下へと下りて行く時に、自分の持っているものを分かち合ったり、人を支える言葉を語り、人に仕える時に、そこに、踏み台として乗り越えるべきような競争相手としてではない、友としての他人の姿が見えてくる。そこで出会う、他人の中にある小ささ、弱さ、痛みが、自分が手を差し伸べて、そのかけたところを補うことができるような、くぼみのようなかたちで見えてくる。そしてその時に、私たちは、人に仕えるために生きられた主イエス・キリストの姿に出会うのです。

決して枯れない命の泉、今まで味わったことのないような優しさで私のことを見てくださる主イエスに、私たちは、そこで出会うことができる。私たち人間は、神と共に生き、神に仕え、人に仕えるために造られましたので、自分のために生きる時にではなく、人のために生きる時にこそ、私たちの人生は、最も充実します。

お話の冒頭で、「高められる」という言葉は、元気づけられる、鼓舞される、そして高きに達するという言葉だと言いましたけれども、本当に私たちが、人に仕えて生きる時に、人からもらうと本当に嬉しくなる言葉、例えば「ありがとう。嬉しい」というメッセージを人からもらう時に、実は私たちは、その時にこそ、心が内側から元気づけられて、高められる。「ああ、自分がここにいて、生きていて、この人と会えてよかった」という手ごたえと高まりを、得ることができるのです。「へりくだる者は高められる。」神と、人のために生きる。そこにこそ、私たち人間が本当に人間らしく、生き生きと、喜んで生きられる道、主イエスに倣う、主イエスに出会える道があります。

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