愛とは

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吉岡契典によるメッセージ

愛とは、何でしょうか?愛とは何か?説明しやすいようで説明しにくい言葉です。けれども聖書は、「愛とは何か」という、私たちにとって大切なこの問いに、はっきりと答えています。

私自身は、初めてこの聖書の言葉を読んだとき、とても驚いたのを覚えています。私が始めてこの聖書の言葉に真剣に向き合ったのは、当時はまだ本当に幼い若者でしたが、幼い自分なりに、愛に対して行き詰まり、挫折した時でした。愛というものが分からなくなったその時に、そもそも自分は、愛という名のもとに、一体何を求めていたのだろうかと頭を抱えながら、私は、コリントの信徒への手紙一13章に、たしか「愛」についての言葉が書かれていたということを思い出して、聖書を開いてこの言葉を読みました。そうしたら、ある意味ショックを受けました。

私はかつて、愛というものを、何か甘いケーキのようなもの、甘く柔らかくて、ふんわりとしていて、ピンク色をしているような、そんなスイートなものだと思っていました。けれども、聖書が語る愛は、いきなり「愛は忍耐強い」という言葉で始まっています。ここにはスイートのかけらもないのです。

4節には、ねたまない、自慢しないこと、高ぶらないことなどの、愛の内容が語られています。

けれども、よく考えてみると、ねたまない愛などあるのだろうか、愛があるからねたむのではないか。愛があるからこそ、独占したいわけであって、そこにねたみが生じることは、ある意味当然だと思えたりもするわけです。さらに、愛とは、それこそ自慢したいものであるのだと、心高ぶったりそれによって有頂天になって仕方ないようなものだとも思うのですが、けれども、それらのことすべては、聖書が語る愛においては否定されています。

私は、愛という言葉の意味を取り違えて考えていました。そしてこの御言葉に出会って、私はその時、愛が分かっておらず、加えてその愛を持っていない自分を知り、確かに深く落ち込みましたが、しかし真実の言葉に触れることができて、私の中に混乱はなくなり、安心をしました。そして神様に、自分にはないこの愛を与えてくださいと祈り、その中で慰められた、ということを覚えています。

そして、この聖書が語る愛を考えるときに、この聖書の言葉の中に、実は、あの主イエス・キリストの御姿が見えてくるのです。

私が時々読みます、森有正という哲学者は「愛はその本性から言って悲劇的なものである」と言っています。愛はその本性から言って悲劇的だと言われる時、そこで、主イエス・キリストの十字架が考えられていることは明らかです。忍耐強い、情け深い、ねたまない、自分の利益を求めない、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える、この御言葉にある愛は、主イエス・キリストの十字架にこそ見いだせます。自分の幸福など、みじんも考えない愛。愛するということは、ある意味自分を忘れ去ってしまうということです。もう自分のことなど頭にない。自分のことなどはすべて忘れてしまって、相手しか見えない。そういうがむしゃらさで、すべてをささげ尽くす愛。これがキリストの愛です。

今朝の御言葉の、「愛」という言葉の部分に、「キリスト」という言葉を置き換えて読んでみても、この文章の意味は少しも損なわれることなく、しっかりと通ります。それはすなわち、キリスト=この真実の愛を宿された方にほかならないからです。

昔からたくさんの偉人賢人が、愛についての言葉を残してきましたが、聖書もそれに並んで、ここで愛の、そのはかなさや、到達不可能な高い理想を語っているのではありません。聖書のこの部分を書き表したパウロという人は、神様から人に与えられる霊の賜物を語っている一連の流れの中で、その賜物の中でも、最高のものとして、愛を語りました。賜物とは、ギフト、贈り物という意味です。つまりパウロは、単なる理想としての愛ではなくて、神様からのギフトとして、私たちの中で現実化する、その愛を語っているのです。

私は今朝、キリスト教会の牧師として、ここで、たんなる理想や道徳を語るのではなくて、福音を語れることに、感謝しています。福音を語るとは、すべてのことを神様ありきで考え、語るということです。神様なしで愛を考えることは、思想家や、心理学者や、自己啓発本のやることで、結局最後には自分の愛のなさに突き当たってしまう道なのだと思いますが、私たちは、自分から出発するのではなく、神様から出発することができます。愛というギフトを私たちの内側に与えてくださる神様がいらっしゃいますので、その神様を信じて進む信仰生活とは、ただ私たちが行う、自分の仕業なのではありません。それはむしろ、私たちを通して現れた、神の業です。愛の出どころは神様です。私は洗礼を受けた時、この愛を、私に向けられた愛として、受け取りました。

愛に生きるという、キリスト教の信仰生活は、決してロマンチックなものではないのかもしれませんが、しかし、そこには、私たちの内側に注ぎ込まれてくる、真剣な、我をも忘れるほどの、キリストの大きな愛があります。

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