思い悩むな

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聖書の言葉

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな[・・・]カラスのことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神はカラスを養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。[・・・]野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。」

新約聖書 ルカによる福音書 12章22~28節

吉田謙によるメッセージ

ここでイエス様が指摘しておられる「何を食べようか。何を着ようか」という悩みは、決して軽い悩みではありません。その日生きるための食べ物、着物にも事欠くような生活をしている人々に対して、このイエス様のお言葉は語りかけられたのでした。

ところが、今、このラジオを聞いておられる方々のほとんどが、今日食べる物や着る物に困って、「どうしたものか?!」と心配しておられるわけではないでしょう。では、そういう私たちには、もう命や体のことで、深刻に思い悩んでいることは一切ないのでしょうか。決してそうではないと思います。私たちもまた、まさに命や体に関わる深刻な思い悩みを、それぞれに抱えているのです。厳しい経済状況の中で、いつ仕事を失い、収入の道が絶たれてしまうかもしれないという不安があります。これから就職する学生であれば、果たして就職先が見つかるだろうか、という心配もあるでしょう。リタイアして悠々自適の生活を送っている人であっても、老後の生活への不安は尽きません。介護を必要とするようになったなら誰が面倒を見てくれるのだろうか、施設に入るとしたら、どれくらいのお金がかかるのか、子供や孫たちに迷惑をかけたくない、そのように思い悩んでいる人はきっと多いことでしょう。さらには、人間関係の思い悩みがあります。家庭においても、職場や学校においても、地域社会においても、人間関係のストレスが非常に高まっています。夫婦だから、親子だから、同僚だから、ご近所だから、ということで人間関係の基本的な枠組みが維持されていた時代はもう過去のことであって、そのような枠を越えて、それぞれの思いや主張がぶつかり合い、お互いに譲ることができず、激しい衝突があちこちで起こっています。そのような中で私たちが抱える思い悩みは、複雑かつ深刻であって、まさに生き死にに関わる問題ではないかと思います。私たちは、それぞれに、人にはなかなか分かってもらえない思い悩みを抱えながら生きているのです。今述べてきたような思い悩みは、当時の人々が抱いていたものとは全く違うものでしょう。けれども、どちらも深刻な、生き死にに関わる問題です。人間は、それぞれの時代、それぞれの社会において、様々な仕方で、命と体のことでの深刻な思い悩みを抱えているのです。

そういう私たちに向かってイエス様は、「思い悩むな!」と言われます。イエス様はどういう根拠があって、このような言葉を語ることができたのでしょうか。24節以下を読み進めていくことによって、そのことが少しずつ明らかになってきます。ここでイエス様は、カラスや野原の花のことを例にあげながら、神様はそれ以上に私たちのことを大切に思い、養い、装っておられることを明らかになさいました。24節の後半に「あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」と言われ、28節には「明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである」と言われています。鳥も花もそして人間も、皆神様がお創りになりました。けれども、人間はその中でも、特に神様に似る者として造られた掛け替えのない尊い存在なのです。そんなあなたがたを神様が養って下さらないはずがないではないか、だから思い悩むな、とイエス様は命じられるのです。

そうすると、この「思い悩むな」という命令は、要するに「神様を信じなさい」という命令なのだ、ということが分かってきます。ですからイエス様は28節の終わりのところで、「信仰の薄い者たちよ」と言っておられるのです。思い悩むのは信仰が薄いからです。「薄い」と訳されている言葉は「小さい」という意味の言葉です。信仰が小さいというのは、信仰が信仰として正しく機能していない、ということでしょう。要するに本当に信じていない、ということです。神様を信じている人は、神様が自分の命と体を養い、装い、守って下さることを信じているのです。そのことを本当に信じているならば、思い悩みからは解放されるはずではないでしょうか。それなのに、なお思い悩むというのは、神様の養い、装い、守りをどこかで信じ切れていないからです。それは即ち、神様を本当の意味で信じていない、ということです。

私たちが信じている聖書の神様は、私たちを救うために、わざわざ独り子であるイエス様を、一人の人間としてこの世に遣わして下さいました。そして、そのイエス様が私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。この独り子イエス様の死によって神様は私たちの罪を赦し、さらにはイエス様を復活させることによって、死んでしまえばそれでお終いなのではなくて、その先に、イエス様が死に勝利して与えて下さる新しい命があることをも示して下さったのでした。そのことを本当に信じ、受けとめているならば、私たちは何も思い悩む必要はありません。なぜならば、私たちのことを御子を十字架に犠牲にするほどまでに愛し抜いておられる神様が、みすみす私たちを滅びるままにしておかれるはずがないからです。必ず最も相応しい時に、最も相応しい仕方で、最も相応しい助けが与えられるはずであります。

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