キリスト教人物伝

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聖書の言葉

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。(中略)わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章35、38、39節

吉田謙によるメッセージ

今日は、アーネスト・ゴードンという人を紹介したいと思います。

第二次世界大戦の時に、日本軍に捕らえられて、タイのクワイ河収容所に送られたアーネスト・ゴードンという人の書いた書物があります。「クワイ河収容所」という題名の実話であります。この書物の前半には、捕虜を使って鉄道を造るという過酷な強制労働の様子が記されています。あまりにその扱いが苛酷であったために、人々は理性を失い、捕虜同士で憎しみ合ったり、殺し合ったり、仲間を蹴落としてでも生きのびようとする、人間とは思えないような醜い姿が、ありのままに描かれています。著者ゴードンも苛酷な労働に加えて、マラリア、脚気(かっけ)、熱帯性潰瘍(かいよう)、ジフテリアなどの病に冒されて、ついにはガラクタのようにして「死の家」に送られていきます。そこは、ただ死を待つだけの場所でした。

ところが、そのゴードンに一筋の光が射し込んだのです。腐っていく死体同然のゴードンを、かつての旧友と、もう一人の若者が、毎日の激務を終えてから、献身的に看病してくれた、と言うのです。やがて彼は奇跡的に回復していきました。ある時、看病してくれていたその友人が枕元で聖書を読んでくれたそうです。そして、その聖書の言葉が彼の心を揺さぶった。「この地獄絵のような暗闇の中にあって、彼らがこんなにも力強く生きることが出来ているのは、ここに秘訣があったのか。彼らのあの力強さ、あの気取りのない生き方、彼らの魅力溢れる個性と行動、それは、この聖書の神様が彼らの背後にいて下さったからなのか。」彼は、ぼんやりと分かり始めたのです。

そんな中、聖書が毎晩読まれる竹藪での集会が始まりました。そして、その集会の中で、彼らの内に確かな信仰が芽生え始めたのです。「十字架のイエス・キリストの愛、この愛こそが神の愛である。このイエス・キリストこそが我々の救い主である。このイエス・キリストは、今、この暗闇の中にあっても我々と共にいて下さる。この収容所のただ中に共にいて下さる。」そう信じ始めた彼らは、竹や牛革を用いて楽器をつくり、オーケストラを奏で、日本軍に聞かせようとします。ボランティアグループを組織して、弱ったり、死を目前にした捕虜たちのためのケアを始めます。自分の食料を重病の友に持って行き、自らは餓死していく、そういう凄まじい光景までもが描かれています。負傷した日本兵が列車に乗せられて汚物垂れ流しのままでいる姿を見て、彼らは哀れに思い、自分たちの貴重な水と食べ物を与え、敵兵であるはずの彼らの手当まで始める。また、ある時、命じられた作業が終わり、工事用具の回収の段になって、シャベルが一本足りないことが分かった。逆上した日本兵は、その時、作業した者全員の射殺を命じた、と言います。ところがその時に、一人の捕虜が「私がやりました」と申し出て、処刑されていきます。しかし彼の死後、問題のシャベルはちゃんとあることが判明した。彼は、自分一人死ぬことによって、他の人々が救われることを望んだのであります。

著者ゴードンは、もともとはキリスト教を嫌っていたそうです。しかし、このクワイ河収容所での一連の出来事を目の当たりにして、彼は少しずつ変えられていきました。地獄絵のような、争いと殺戮に満ちたこの収容所の中にも、確かにキリストは共にいて下さった。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」著者ゴードンは、このクワイ河収容所での壮絶な強制労働の中で、この聖書の御言葉を身をもって体験したのです。この凄まじいまでの神の愛の支配を知った著者ゴードンは、戦後、自ら進んで牧師になりました。

聖書が語る希望は、災いや困難から守られた無菌状態での希望ではありません。どんな嵐の中でも、尚、平安がある。地獄絵のような、争いと殺戮の中にあっても、キリストの愛から私たちを引き離すことは出来ない。それは何故か。私たちの救い主イエス・キリストが、十字架の死を突き抜けて、死に勝利して、復活なさって、今も生きて働いておられる、どんな暗闇の中にあっても、私たちと共にいて下さるからです。ここに私たちの希望があります。

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