聖書の言葉
家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
旧約聖書 詩編 118編22節
弓矢健児によるメッセージ
私たちは嬉しいことや楽しいことがあった時には喜びます。自分が願っていたこと、期待していたことが実現した時、心から喜び祝います。しかし、人によっては、自分にはそのような時はなかった、とおっしゃる方もおられるかもしれません。それどころか、自分は辛い経験をした。心や体に大きな傷を負ってしまった。「喜び祝うなんて、とんでもない」、そうお感じになる方もおられるでしょう。
けれども、本日の御言葉は、それでもあえて私たちに語ります。「今日を喜び祝い、喜び踊ろう」と。しかし、どうして聖書はそのようなことを、私たちに語っているのでしょうか。聖書は、何の根拠もないのに、ただ「喜び祝え」と教えているのでしょうか。決してそうではありません。
先程読んだ詩編118編の22節、23節を見ると、次のように言われています。
「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、私たちの目には驚くべきこと」
新約聖書を見ると、ここで言われている、「家を建てる者の退けた石」とは、イエス・キリストのことであるということが分かります。イエス・キリストは、ユダヤの支配者たちによって退けられ、十字架で殺されました。けれども、キリストは、単に十字架にかけられて、滅んでしまったのではありません。キリストはその後、三日目に死者の中から復活されました。そのことを通して、イエス・キリストは、私たちの罪を完全に贖い、永遠の命を獲得してくださったのです。まさに、キリストは、十字架と復活の出来事を通して、私たちの救いの親石となってくださった。私たちの救いの岩となってくださったのです。
私たち人間の常識では考えられない出来事です。人間の目には驚くべきことです。しかし、聖書はこの出来事、キリストの十字架と復活の出来事こそ、神の驚くべき御業であると証言しています。そして、「今日」という日は、まさに、この素晴らしい、驚くべき神の御業が、私たちに与えられている日なのです。
もちろん、私たちが経験する毎日は、決して楽しいこと、喜ばしいことばかりではありません。苦しいことや悲しいこともたくさんあります。笑顔の時もあれば、目に涙する時もあります。しかし、それでも、私たちの毎日は、神の愛の眼差しの下にあります。私たちの救いのためになされた神の驚くべき御業が、私たちに注がれているのです。だからこそ、今日という日は、私たちにとって「喜びの日」、「恵みの日」なのです。
パウロという人が、新約聖書の中で、「今や恵みの時、今こそ救いの日」(2コリント6章2節)と語っています。パウロは決して、毎日が楽しいことばかりであったから、そのように語ることができたのではありません。聖書を読みますと、パウロは伝道していく中で、多くの試練や苦難を経験したことが分かります。空腹になることも度々でした。鞭で打たれたり、監禁されたり、侮辱されたり、殺されそうになったこともありました。それにも関わらずパウロは、そのような毎日を、「今や恵みの時、今こそ救いの日」であると告白しました。なぜなら、パウロは、試練の中にあっても、イエス・キリストの十字架と復活によって、神の救いの恵みが日々、自分に注がれていることを知っていたからです。
私たち人間は決して強くはありません。自分の生活のこと、健康のこと、家族のこと、将来のことを考えれば考えるほど不安になってしまいます。そして、知らないうちに心が萎えてしまうことや、不安に押しつぶされそうになることもあります。しかし、そうであるからこそイエス・キリストは、「明日のことまで思い悩むな」「その日の苦労は、その日だけで十分である」とおっしゃったのです(マタイ6:34)。
大切なことは、どんな時も今日という日、神から与えられた恵みの時として感謝し、喜び祝うことです。
神が、「今日」と言う新しい日を、私たちに与えてくださったことをまず喜びたいと思います。また、自分だけの力ではなく、神の愛と多くの人々の支えによって、「今日」を過ごすことが許されていることを喜びたいと思います。そして今日、この放送を通して、皆さんとお会いできたこと、共に神の御言葉を聞くことができたことを喜びたいと思います。
神は、みなさん一人一人の「今日」という日に、喜びの種を蒔いてくださっています。