父親の眼差し

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聖書の言葉

水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

旧約聖書 イザヤ書 43章2節

山中恵一によるメッセージ

子供を育てる父親の目線から、あらためて感動した御言葉をみなさんにご紹介しています。子供は色々なことを私たちに教えてくれます。子供の日々を見ているなかで、考えさせられる、そんなことが多々あります。「親は子供に育てられる」と聞いてきましたが、そのとおりだなぁと思います。

うちの子供は、父親のことが大好きです。どこにでも付いてきます。「そんなとこまで?」という場所まで、わたしを追っかけてきます。そうはいっても、いつも子供といっしょに居られるわけではありません。お風呂に入ったり、トイレに行ったりするわけです。けれども、トイレに入っていると、ドンドン、という音が聞こえます。耳を澄ますと、「あー」とか「うー」とか言いながら、自分のことを待っている子供がそこにいるんですね。お風呂でシャワーを浴びていても、お風呂の扉をドンドン叩いて、「早く出てこい、早く出てこい」と急かされます。いっしょにリビングで子供むけのテレビを見せている時、子供に何かしているわけではないのですけど、そこから自分が居なくなると、それもどうやら嫌みたいで、わたしのことを追っかけて来る場合があります。いっしょに居たいんですね。そこには、難しい理由は何もないのだと思います。彼にとって「心地よいか?心地よくないか?」それくらいの素朴な思いで、わたしを追っかけて来るのだと思います。そんな子供の様子を思いながら、「何で自分と居ることがそんなに心地よいのかなぁ?」そんなことを考えさせられました。きっと毎日、わたしが彼に注ぐ気遣いであるとか、その根元にある愛とか、そういうものに反応しているんだと思います。そんな風にトイレまでくっ付いて来ようとする自分の子供の姿を見ながら、嬉しい思いを覚えながら、今日の聖書の御言葉へと、わたしは思いを向けさせられました。

先ほど読んだ聖書の箇所には、どんなところでも、わたしといっしょに居ようとされる神様の熱い思いが、語られていました。「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。」火の中を歩いていても、そこに神様が居てくださる。神様という御方は、トイレどころではなく、水の中でも、火の中でも、私たちと居ようとしてくださる、そういう御方です。

わたしは普段、仕事があるので、日中は子供と離れているんですけど、母親の方は、いつも子供といっしょにいるんですね。「母親というのは、本当にすごい」と感心させられます。わたしの方は、子供の目を盗んで、家に居ても、あれこれしようとするんですが、妻の方は、子供がひとりにならないよう、色んなことを我慢して、美容院に行くとか、友達と連絡をするだとか、そういうことを我慢しながら、子供を中心に自分を犠牲にしています。子供の安全のため、自分の生活のすべてを費やして、心を配って、子供に尽しています。「子供と母親とふたりきりの家の中、自分がいなくなっては大変、自分がいればとりあえずは大丈夫、だからいっしょにいなくっちゃ。」子供を守る親心が、そこには在ります。

この姿は、ただ、親の責任感、あるいは使命感、だけで成り立っているのではありません。彼女の姿を作りだしているのは、子供を本当に心から大切にするその「愛」であると思います。神様が私たちといっしょにいてくださるのも、神様としての責任感、使命感、そいうものではないんですね。人間を救う方法だからいっしょに居ないといけない。こういうドライなものではありません。神様は私たちのことを尊んでくださって、本当に大切なモノと思っておられるんですね。「いっしょにいたい!だから、わたしはあなたと共にいる!」こう言ってくださるんです。そして、その「いっしょにいる」という思いは、ウチの子供が、父親を慕うどころの話ではありません。たとえ火のなか、水の中。「そんな時にまでわたしといっしょにいたいんですか?」そう思えるくらい神様という御方は、私たちといっしょにいることを強く願ってくださるんですね。

「誰かがいっしょにいてくる」これは、ありがたい事です。しかし、それは、相手によりますよね。神様という御方がどれだけわたしといっしょにいたいとしても、神様が厳めしいだけの御方であるならば、これはもう、緊張のしっぱなしで、たまったものではありません。しかし、神様は、ウチの子供にとってのわたしや妻以上に、わたしに対して愛を注いで、愛をもって、いっしょにいてくださる御方です。自分のことを心から愛してくれる相手。そういう相手が、いつでも、どこでも、どんな時にでも、自分のそばにいてくれる。これは本当に心地のよいこと。ありがたいことです。

今朝の聖書のお話から「あなたといっしょにいることを願う、そういう神様がいらっしゃるんだ」このことをひとつ知っていただきたい、と思うのです。自分がどんな状況にあろうと、決して私たちを見捨てず、どんな時だろうと、私たちを決して見限ることがない、そういう御方がいらっしゃるんですね。私たちの周りにも自分を支える。そういう人がいるかもしれません。しかし、人間というのは、どれだけ親しい間柄であったとしても、ずうっといっしょにいることはできません。何かしら私たちを引き離すモノがあるんですね。その時、私たちは相手から見限られるわけです。「いっしょにはいられない。こっから先、お前と居るのはもう無理だ」と。これは寂しい言葉ですね。ひとは、自分といっしょにいることを貫き通すことができません。状況によっては、自分という人間は受け入れてもらうことが出来ないんです。これは悲しい事です。受け入れてもらえない、とは、自分が否定される。自分が拒まれるということです。状況によっては、人は自分を否定する。受け入れることはできない。自分という人間は、いつでも、どこでも、人に受け入れられるわけではありません。しかし、自分の周りの人間が、「もう、これではあなたといっしょにいることはできない」、お手上げになってしまうようなところでも、「あなたとはもう付き合いきれない」と、匙を投げてしまうような状況でも、どんな場所でも、どんな時でも、「あなたといっしょにいよう」と願い、「あなたとわたしは共にいる。」こう言ってくださる御方がいるんですね。この神様からのラブコール。これをぜひ受け入れていただきたいと思います。この愛は、あなたがどんな状況になっても、あなたに力を与える。そういう愛だからです。

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