なんという空しさ

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聖書の言葉

エルサレムの王、ダビデの子、コへレトの言葉。

コへレトは言う。

なんという空しさ

なんという空しさ、すべては空しい。

旧約聖書 コヘレトの言葉 1章1,2節

宮武輝彦によるメッセージ

このコへレトの言葉とは、旧約聖書の知恵文学の一つで、日本語の聖書では、新共同訳聖書で「コへレトの言葉」、口語訳聖書や、新改訳聖書では、「伝道の書」と呼ばれています。また、英語の聖書ではEcclesiastesと呼ばれます。

もともと、コへレトという言葉の意味は、人々が集まるところで、神の言葉を告げる者という意味があります。おそらくは、このコへレトの言葉の前にある、箴言の冒頭において、「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言」と名前が明らかにされているとおりに、いにしえの時代、イスラエルの王であった、ソロモンこそが、このコへレトその人であったのでしょう。

とすれば、時代が下って、山上の説教を語ったイエス・キリストが、「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイによる福音書6章29節)と形容するほどに、裕福な生活をしていたソロモンが、なぜ、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」などという、一見、神の恵みの豊かさを疑うかにも思えるような言葉を発せずにおれなかったのでしょうか。

その手がかりは、この「空しい」と訳された言葉の原語をたどることにあります。それは、元々、ヘブライ語のへベルという言葉です。神に造られた最初の人間アダムとエバの子は、カインとアベルでしたが、弟のアベルも、へベルと同じです。

兄のカインに、この弟アベルは殺されてしまいます。それは、カインとその献げ物に、主なる神は目を留められず、アベルの献げ物を受け入れられました。自分の献げ物を受け入れらなかった、激しく怒ったカインは、顔を地に伏せ、自分の心をあらわします。

この時、主なる神はカインにこう言います。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せしており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(創世記4章6節)

この言葉のとおりに、カインは、弟アベルに声をかけ、アベルを襲って殺してしまうのです。カインの献げ物は、真心からのものではなかったことを、この殺人の罪は、証明することになります。

ですから、このコへレトの言葉の「空しい」という言葉の響きには、アベルの死の悲しみを思い起こす響きがあります。もちろん、アベルだけでなく、すべての人の人生のはかなさを思うとき、人々の王として立てられたソロモンは、人々の間に立てられた王として、共通の思いを代弁して、「なんと人生ははかないものなのか」叫んでいると言うこともできるでしょう。

ところで、聖書は、わたしたちに、人間が神によって造られたことをこのように物語ります。

「主なる神は、土(アダム)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2章7節)。

この土の塵から人間は形づくられたことを思いつつ、モーセは、このように、造り主である神の前に、人間の一生のはかなさを告白しました。

「あなたは人を塵に返し“人の子よ、帰れ”と仰せになります。千年といえども御目には昨日が今日へと移る夜のひとときに過ぎません。あなたが眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい夕べにはしおれ、枯れて行きます。」(詩編90編3-6節)。

それは、コへレトの言葉と同じように、一見、人生のはかなさを憂う言葉のように見えながら、その思いの中心には、神のご意志と命令があることに気づかされます。「人の子よ、帰れ」という神のご意志と命令こそ、人間の死を真実に支配している事実なのです。

それでは、聖書は、その人間の死とその理由について、どのように、証ししているでしょうか。それは、 イエス・キリストが、神の永遠の独り子でありながら、へりくだって、わたしたちと同じように、塵から造られた肉体をもって、この世にお生まれにならねばならないほどに、神は人間に与えた命を、大切に、いとおしく思っておられることです。それほどまでに、神は、人間が、ただ、「空しく」「はかない」ままに、一生を終えることを望まれず、かえって、その罪と、神の裁きを免れるために、御子にその裁きのすべてを負う仕方で、神を喜ぶ命を与えよう、と望まれたのです。それは、ただ、神の深い憐れみによる、神のご意志によることです。

この神の深い憐れみによって、イエス・キリストが、人間の死ぬべきはかない命を担ってくださった事を、預言者イザヤはこう告げました。

「彼が担ったのはわたしたちの病彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。 彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」イザヤ書53章4,5節

このイエス・キリストが負われた苦しみを知るとき、わたしたちは、コへレトの言葉が「なんとう空しさ」と叫ぶ、問いかけに、イエス・キリストの命において、今や、わたしたちには、本当の命の満たしが与えられると信じます。

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