主の祈り 6

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聖書の言葉

わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。

新約聖書 マタイによる福音書 6章12節

吉田謙によるメッセージ

今日は、この「主の祈り」の第5番目、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」という祈りについて学びたいと思います。

この「負い目」というのは「罪」のことです。ですから、私たちが通常祈っている「主の祈り」では「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」となっています。この祈りには「私が人の罪を赦す」ということと「私の罪を赦して下さい」という祈りが、明らかに一つに結び合わされています。つまり、人の罪を赦す戦いを放棄しながらこの祈りを祈ることはできない、ということでしょう。真剣に人を赦そうという戦いを実際に経験し、悩み、苦しみ、打ちのめされて初めて、私たちは自分の罪深さを本当の意味で知ることができます。そして、その時に初めて「主よ、どうぞ、私の罪を赦してください」と心から祈ることができる。そういう意味では、私たちが人の罪を赦すということと「私たちの罪を赦してください」と神様に祈るということは、一体的なことなのです。

今、世界各国の難民支援活動を精力的に支援されているクリスチャン作家、犬養道子さんは、祖父である犬養毅首相の暗殺事件、有名な5.15事件が切っ掛けとなって、キリストを求めるようになりました。大切な祖父を殺した将校たちの犯した罪、それはあくまでも自分たちの考えが正しいと主張し、それを押し通すためには手段を選ばない、というものでありました。けれども、やがてそれと同じ人間性が、自分の中にもあるということを彼女は知るのです。後に、大きな志を抱いてアメリカに留学した彼女は、結核の病に冒され、3年間の療養生活を強いられることになります。その療養生活の中で、彼女は思いもよらない自分の姿を知ることになるのです。自分よりも早く全快して退院する人たちを「良かったね」と心から祝福することができない。むしろ、やっかんでしまう自分。医者や看護婦に対して、あの人よりも、この人よりも、自分のことを一番大切に思って欲しい、自分のことをまず最優先にして欲しい、と思っている自分。もらった花を隣の病人に分け与えたくなくて、花を手渡しながらも、心の中では「ああ、もったいない」と思っている自分。そんな自分の醜さに、彼女はこの時、とことん直面させられたのです。「ああ、この私の罪のためにイエス様は十字架の上で死んで下さったのだ。やっと分かった。その時初めて十字架を身近に感じることができました」彼女は、このように語っています。

ただ清く正しい人間として肩肘張って生きている時には、神様の赦しと愛がこんなにも豊かなものだとは気づかなかったけれど、自分がいかに罪深い者であるかが分かった時に、そのために十字架で苦しまれたイエス様の救いの恵みが急に身近に感じられるようになった、と彼女は言うのです。これはとっても大事なことだと私は思います。

まず私たちがなすべきことは、「清く正しく生きよう!」と、背伸びすることではありません。そうではなくて、もう見栄やプライドは全部捨てて、へりくだって、自分の内側にある罪を、しっかりと見据えることです。まず私たちはそこから始めなければならない。

最初に少し触れましたように、ここでは「罪」のことが「負い目」という言葉で言い表されています。「負債」と翻訳されている聖書もあります。罪とは、借金、負債のようなものだ、という理解がここには込められています。罪を赦す、それは負債を免除する、借金を帳消しにする、ということです。借金を帳消しにするということは、貸したお金はもう戻って来ない、つまり、貸した人が大損をすることです。神様は私たちの罪、即ち負債を赦すために本当に大きな犠牲を払って下さいました。それが、他でもない御子イエス・キリストの十字架の苦しみと死です。こんなにも大きな犠牲を神様が払ってくださったのですから、私たちも、当然、ゆるしに生きるべきなのです。

以前、ある方が、一日の終わりに祈る時には、「神様、見ての通り、相変わらず私は、こんな者ですわ。また同じ過ちを犯してしまいました。また人を罵倒としてしまいました。どうぞお赦し下さい」いつもいつもこういう懺悔の祈りを繰り返しています、と言われました。勿論、過ちを繰り返すということ自体は決して良いことではありません。けれども、そうやって日々祈ることができるということは素晴らしいことだと私は思います。それは、赦すことをまだ諦めていない、ということです。赦す戦いを諦めていないということであります。人を赦すことは確かに簡単なことではありません。大きな損失があります。戦いがあります。苦しみがあります。けれども、実際にそういう戦いの中で苦しんでいる人は、神様が私たちを赦すために、どんなに大きな犠牲を支払ってくださったのかがよく分かると思います。それが大切なのです。「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」というこの祈りは、そういう赦しの戦いの中でこそ生きてくる祈りではないかと思います。

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