聖書の言葉
主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
新約聖書 ルカによる福音書 22章61~62節
吉田実によるメッセージ
今回は、私が大変尊敬しています水彩画家「堀江優先生」とその作品について、お話をさせていただいております。先週もお話しいたしました通り、堀江先生は神戸市立の小学校の担任教師として子供たちの教育に情熱を注ぎながら、同時に聖書の世界を独特のタッチで描いた画家でありました。そして1980年に、小学校の教師をしながら美術界の芥川賞と呼ばれています「安井賞」を受賞なさったのです。「安井賞」を受賞したとなれば、普通は豪華なホテルで各界の名士をご招待して受賞記念パーティーなどを開催するものですけれども、堀江先生は担任をしておられた3年1組の生徒と保護者の皆さんがお祝いをしてくださいまして、学校の教室でジュースで乾杯をしたとお伺いしています。そんな堀江優先生の安井賞受賞作品が、この「ペテロ」なのです。
女性たちが一人の男を取り囲み、彼を指さしながら何かを訴えています。しかしその男は、彼女たちの訴えを全身で否定するかのように両手で耳を覆い、貝のようにうずくまっています。それがイエス・キリストの一番弟子でありました「ペテロ」の姿なのです。イエス様が十字架につけられる前夜、弟子たち全員がつまずくということをイエス様が予告されたとき、ペトロはこう言い放ちました。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。しかしイエス様はそんなペトロにこうおっしゃいました。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。そして、その予告通りになってしまうのです。しかし福音書を見ますと、この絵に描かれているようにペトロが大勢の女性たちに取り囲まれて訴えられるというような場面は出て来ません。幼い頃から聖書物語を聴いて育った堀江先生ご自身も、そのことは百も承知であったはずです。このペトロの姿は、堀江先生ご自身の心の中にあったペトロの姿なのです。「わたしは決してつまずきません」と豪語したにもかかわらず、イエス様の予告通りに三度も「イエスを知らない」と否定してしまったペトロの弱さにご自身の心を重ね合わせながら、「きっとペトロは、こんな風にみんなに責められているように感じたに違いない」と、想像の翼を広げる中で現れた構図であったと思います。
堀江先生ご自身が生前このような言葉を残しておられます。「以前から聖書を読んでいて、心に引っかかっていた一人の人物が、直ぐに脳裏を支配するようになった。熱心にイエスに仕え、服従を誓いながらも、三度も『イエスを知らない』と、離反する心の弱いペテロである。イエスの予告したことばを思い出し、『外へ出て激しく泣いた』という聖書の記述は、私の心をとらえていたものである。これは、私自身の心の弱さを突かれており、ペテロに親近感を覚えてしまう。こうして、心の弱さを露呈してしまうイエスの弟子たちや旧約聖書に登場する人物たちと私自身の弱さを重ねて聖書の世界を描き出そうとする制作テーマは自分のものとなってしまった」。こう書いておられます。そしてそんな堀江先生は、「弱さ」を決して悪いものとは考えていませんでした。むしろその「弱さ」の中に届いてくださる「神の力」に期待していたのです。小学校の教師をしながら制作を続けた堀江先生は、こんな言葉も残しておられます。「教師は、仕える者である。教師が、上から、何かを教えてやろう、教えねばならないと構えると生徒の心は退却する。祈りは、人の心を謙虚にさせ、対する人の心を引き出す香りを放つ。教育の第一歩は、教師が祈りによって『人に仕える者になる』ことである。…『弱い人』がよい教師になれる。私は虚弱で内向的な性格をもって年齢を重ねて来た。…私は、自分自身の弱さを誇らねばならないのだ。現在、教室の子どもを導く、弱さの中にあるキリスト者教師が、一人でも多く、出現してほしいと願うものである」。
様々な「弱さ」を覚えながらも、信仰を持って画家として教育者としての道を歩み続けられた堀江先生にとって「弱さ」はむしろ神の御力が働くための舞台となり得たのでしょう。そんな彼は、激しく泣いたペトロの涙の中に「希望」を見つめていたに違いありません。そんなことを思いながらこの作品を見るときに、弱いペトロの惨めな姿だけではなくて、その背後にイエス様の御声が聞こえてくるような気がいたします。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」という御声です。この弱いペトロが最初の教会のリーダーになりましたように、イエス・キリストはあなたの弱さの中にも働いてくださいます。