総ての人を愛し招く主イエス

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聖書の言葉

ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

新約聖書 ルカによる福音書 15章25節

大野桂一によるメッセージ

聖書の放蕩息子の譬え話は、多くの方が何度も聴かれているかもしれません。

優等生の兄と落第生の弟が居りました。弟は、父等の束縛から逃れて、全く自分勝手な自由な生活にあこがれ、父に遺産相続分を分けて呉れと要求し、すべてをお金に換えて、家族の手の届かぬ外国に行き、したい放題の放蕩をしました。

結局は、飢え死にするような状態に陥り、やっと我に返り、父にお詫びをして、息子としてではなく、雇い人の一人として父の下に置いて欲しいと願う積りで、故郷に帰ります。

父は、ぼろをまといやせ衰えた次男に先に駈け寄り、彼のお詫びの言葉も遮り、抱き抱え接吻、着物を着せ指輪をはめ、靴を履かせ、全く無条件に元の息子として受け入れ、死んでいたのに生き返ってきたと大喜びで祝宴をあげます。

15章25~28節「ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです』。兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。」

兄は怒りに心を震わせます。放蕩をして帰ってきた弟を、弟とは認めていません。

兄は心の中で、弟を殺しているのです。弟のことを忘れることが出来ず、愛に生きる父にも腹を立てているのです。兄は、真面目に父に仕え正しく生きている自分の怒りは、正しいと思っています。兄の怒りは正義の意識がこびりついています。

29~30節「しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会するために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる』」。

弟が放蕩をして帰ってきたのに、父は、全く無条件で赦し大喜びをする。自分を弟と同じように可愛がってくれたことがあるのか。自分が長男らしく精一杯働いてきたのは、何の意味があったのか。模範的に生きてきた自分は、それに相応しく取り扱ってもらう権利があると兄は思っています。兄は正義の怒りのあまり、父を貶める言葉で、あなたのあの息子と言っています。兄は、父を父として認めておりません。

けれども父は、兄もその心の中では、弟と同じように自分を離れる罪を犯しているではないか、弟と同じように父親の気持ちは分からず、父より遠いところで自分勝手に生きているではないかと問うているのです。父にとり兄も弟と同じく失われた存在でした。

31~32節「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』」。

父は、弟も兄も、祝宴に加わって欲しいのです。父は、自分に怪しからぬ態度をとる兄を、優しくなだめて祝宴に加わるように勧めます。ここでこの譬え話は終わっています。果たして兄は、弟と共に祝宴に加わったのでしょうか。その結末は、語られていませんので、分かりません。

譬え話の祝宴とは、天国における祝宴を象徴しています。放蕩をして悔い改めて帰ってきた弟は天国の祝宴に、父に真面目に仕えてきたと自負している兄は、祝宴に入れたかどうか分からないのです。

本日の譬え話は、ファリサイ派の人々が、イエスが罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしていると不平を言いだしたから始まりました。

彼らは、当時のユダヤ人の中で、信仰的にも道徳的にも最も立派な生活をした人々で、自分たちが罪人だとは少しも思ってはいません。自分たちは神の掟を守って正しく生きている。当然神の恵みを受ける資格があり、神の民であると自負していました。

イエスが神の教えを伝えるために来たのであれば、自分たちを重んじるのが当然であり、罪人たちと一緒に食事をするのは許しがたい、とイエスのなさり方を認めることが出来ませんでした。

ファリサイ派の人々は、罪人たちが滅びると、天では喜びがあると考えていました。自分たちは、真面目に生きており神の民であると自負し、罪人たちを軽蔑し裁いていたのでした。譬えの兄が心の中で、弟を殺し、父をも殺して、罪を犯しているように、彼らは、徴税人や罪人を心の中で殺しているのです。

彼らは、自分達の真面目な生き方、自分達の行為により、すでに自分自身を神の民としているのです。神に救われる必要はなく、自分で自分の救い主になっています。

しかし、全く聖く正しい神が、私たちの心の中までご覧になれば、どんな人格者と言われる人でも、罪があるのです。

イエスは、総ての罪人を救う為にこの世に来られて、私たちの罪を総てにない、十字架に架かり、私たちの身代わりに罰を受け、私たちの罪を処分してくださいました。

このイエス・キリストを信じる人は、神は罪なき者とみなしてくださり、神の民として下さるのです。本日の譬えの中で、イエスはファリサイ派の人々を、糾弾されているのではありません。兄を祝宴に招いておられるように、ファリサイ派の人々も祝宴に参加して欲しいと願っておられるのです。

主イエスは、私たちの罪を赦し、神との交わりを回復し、神と共に生きる命を与える為に、総ての人を愛し招いておられるのです。

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