聖書の言葉
イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
新約聖書 ヨハネによる福音書 19章25~30節
吉岡契典によるメッセージ
「成し遂げられた」「やりきった」という言葉と共に締めくくることの出来る人生というものは、どんな人生だと思いますか?普通は、そういう言葉と共に終える人生とは、充実した人生、華々しい人生なのではないかと思います。夢が実現した、何かの念願がかなった。自分の努力や仕事が報われて、何らかの目に見える成果や、人からの良い評価が与えられた時、そういう時に、満足感と共に、口をついて出る言葉が、成し遂げられたという言葉なのではないかと思います。
そして、主イエス・キリストも「成し遂げられた」という言葉をもって息を引き取られたのですけれども、主イエスは、ここで何かの戦いに勝たれたわけでも、華々しい成果をあげて、人々からの評価と賞賛を受けられたわけでもありませんでした。
むしろ主イエスの「成し遂げられた」には、それとは反対の意味がありました。
イエス・キリストが十字架にかけられ、「成し遂げられた」と言って息を引き取る前、主イエスは「渇く」と言われました。それは、「わたしは干上がった」という言葉です。
主イエスはかつて、ヤコブの井戸という当時有名な井戸の前に立ち、こう言われたことがあります。「この水を飲む者は、だれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。古代から涸れたことのないこの有名な井戸以上に、涸れることのない永遠の命の水を、あなたに与えると言われた主イエスが、十字架の上では、「わたしは干上がった」と言われた。
なぜか?それは注ぎ切ったからです。主イエスは、十字架の上に吊るされ、肉体的には、汗も血も、御自身の中にある全ての水分を出し切られて、そして精神的には、神様の怒りを浴びて、人にも神にも捨てられた。その痛みと恐怖を味わいながら、全くの孤独状態になり切られました。そのとき、泉のように主イエスの内側に潤っていた水は、注ぎ出され、出し尽くされた。その命の水の、最後の一滴が注ぎ切られたという完了の合図が、「渇く」という言葉と、「成し遂げられた」という言葉です。
では、その主イエスの命のうるおいは、どこへ行ってしまったのでしょうか?それはどこに注ぎ切られたのでしょうか?
主イエスは、「実を言うと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる」とも言われました。十字架は、ただ主イエスの命が失われるという、苦しみと別れの時だったのではなく、私たちのためになること、それは私たちへの、命をかけた贈り物だったのです。
こういう歌の歌詞があります。「十字架からあふれ流れる泉、それはイエスの愛」。主イエスは決して枯れない永遠の命の泉を、十字架で、私たちに与えてくださいました。それは本来、私たちがもらうことのできないものでした。けれども主イエスは、私たちを赦してくださり、ただ一方的に、その贈り物をくださいました。Give and takeの関係を、聖書は愛と呼びません。聖書が語る愛とは、見返りを求めずに、自分を与えることです。
十字架を見る時、そこには、私たちの目から見て、何かが成し遂げられたような成果は見えません。むしろそこには痛みがあり、恥ずかしさがあり、渇きがあり、最後には死がありました。けれどもこのことによって、完璧に成し遂げられたことがありました。それは愛です。ここには、見返りを求めずに自分のすべてを与え尽くす、その愛の塊があります。
愛は、未だ成就していない、愛はどこにも見つからない、のではないのです。愛は、ここに、成し遂げられました。
今朝の聖書の言葉には、「このぶどう酒を受け取ると」という言葉がありましたが、これは、本当のところはぶどう酒ではなくて、酸っぱいお酢のことです。主イエスの「渇く」という言葉を聞いて、周りの人間は、渇きをさらに激しくするためのお酢を差し出して、さらに主イエスを苦しめたのです。「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを、塵と死の中に打ち捨てられる」という旧約聖書の言葉が、主イエスの身に実現し、そしてその時に主イエスは、「成し遂げられた」と言われて、息を引き取られました。
自分が成し遂げた結果だけによって測られるのではない生き方が、ここにあります。それは、私のために成し遂げられたものを受け取って、生かされる生き方です。そして、私たちへの神様の命懸けの愛が成し遂げられた場所、それが完全に成就した場所が、主イエスの十字架でした。
手の届かない高みにあるのではなく、一番低いところにある、どんなに弱い人のもとにも届く、すべての人の近くにある、キリストの十字架。しかしそこから「神の、あなたへの愛は、成し遂げられた」という主イエスの言葉が聞こえてきます。この愛を受け取り、この命の泉から汲み取り、赦され、潤されて、十字架から差し出された、この主イエスの命によって、私たちは生きるのです。