私の居場所はどこに?

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聖書の言葉

ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。

新約聖書 マタイによる福音書 18章12~13節

吉岡契典によるメッセージ

居場所とは、ただの物理的な空間を意味しません。自分がそこに居てもいい場所、自分が認めてもらえる場所、自分の存在が受け入れられている場所、そういう場所だけが、「わたしの居場所」になります。

その居場所は、ではどうやったら、手に入るのでしょうか?インターネットのアマゾンで、ベストセラーになった本がありました。その本のタイトルは、『自分の居場所の作り方』という本でした。そこには「自分の居場所がなくなる9つの方法」と、「自分の居場所をつくる9つの方法」が、こと細かに書かれていました。そしてその本には、自分の居場所を失わないように、周りに気を遣いなさい。そして、いかにすれば人に認めてもらえるかを常に考えて行動しなさいとあり、つまりその本が語っているメッセージは、周りから外れないように、一生懸命空気を読んで頑張りなさい。居場所ができるかどうかは、あなた自身の頑張り次第で決まるのです、ということでした。

その本がベストセラーになるということは、みんなこれを買って、真剣に読んでいるということです。それが意味していることは、私たちにとっての居場所とは、こういうものだ、それはこの本にあるように、自分で掴(つか)みにいくもの、自分で造り上げ、自分で守るべきものだ、ということなのだと思います。

そこで私たちは、この居場所の問題を、聖書はどう語っているかを聞きたいと思うのですけれども、聖書の言葉に、突然羊が出てきます。100匹いる羊の中の、ある1匹が迷い出る。その時羊飼いは、残りの99匹を山に残しておいて、迷い出た1匹を探し出して連れ帰る。そして迷わずにいた99匹のことよりも、見つかった1匹のことを、その羊飼いは喜ぶ。

私たちにとってそれほど馴染み深い動物とは言えない羊ですが、この羊という動物は、白くてかわいいのですが、全く無力な動物です。羊はヤギと違って野生では生きられない、弱い動物です。そういう羊たちにとっての、一番の安全な居場所は、羊飼いが守っている群れの中にしかありません。

けれども、その羊の群れから1匹が迷い出てしまったということは、その1匹が、群れの中に居るという、羊として生きていくための最低限のルールを、この時破ってしまったということを意味しています。今朝の聖書の言葉の見出しに、「迷い出た羊のたとえ」と書いてありますが、この羊は、群れの外に偶然はぐれたのではないのだと思います。何か不慮の事故にあったとか、羊飼いにつまみだされたとか、そういうことではなくて、この羊は自ら進んで、確信犯的に迷い出て行った羊なのではないかと思うのです。なぜなら残りの99匹は、ちゃんと群れの中にいるからです。この1匹の羊は、99%が迷わない、99%が無事な状況でも、そこでわざわざ迷ってしまうような、そういう問題のある羊なのです。

間違いを犯し、群れから出て行った羊。自ら居場所を放棄したのですから、そこで道に迷って、放っておかれて死んでしまっても、あるいは狼に食べられてしまったとしても、それは自業自得と言うしかない、これはそういう羊なのです。

けれども、そういう羊に、居場所が与えられます。それは迷った1匹が居場所を勝ち取ったからではなく、羊飼いが、その1匹を再び見つけてくれたからです。羊飼いは、99匹を山に残して、野ざらしにしておくという、大変に大きなリスクを冒して、迷い出た1匹を探しに行きます。けれども、99匹を置き去りにしてまで探しに行くという、そんなことをしてもらうだけの価値は、迷い出た羊にはありません。

価値のあるものが救われて、それに相応しい居場所を得るということなら、常識的に理解できます。けれども、それは救いにはなりません。救いとは、それに相応しくない者が、その身に余る、豊かな居場所を得るということです。

そして神様の思いとは、迷わずにいた99匹よりも、迷った1匹が救い出されて帰ってくることの方を喜ぶという、私たちへの思いです。

そのまま捨てられて当然の、小さな価値のない羊に、神様は、その羊の現実とは全く不釣合いな、大きな価値を置かれます。まともで賢い、よくできる99匹を山に置いて、けつまずいて出て行ったこの一匹をめがけて、イエス・キリストは追いかけてきてくださるのです。そしてこの方はしっかりと追いついて、その羊を抱きかかえて、大喜びしてくれるのです。

神様を信じるとは、このような愛が、この自分に向けられているということ信じるということです。それは、この自分も、主イエスによって捜されているのだという事実の中に立つことです。居場所はないのではない。居場所はあります。私が、ここにいていいよと招かれて、安心して、心地よく、そしてありのままの自分で居ることのできる居場所。そこが人生の救いとなり、この場所から自分はまた新しく出発できる!と思えるようになるような、拠り所となるような居場所。あなたにとってのその居場所は、主イエス・キリストによって開かれています。

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