見えないものは永遠に存続する

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聖書の言葉

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 4章18節

宮﨑契一によるメッセージ

私は牧師として奉仕をする中で、最近、よく入院された方のお見舞いに行くことがよくあります。現代社会は、超高齢化社会、こういうふうに言われる訳ですけれども、本当に多くの高齢の方、そして、その方の病の現実、最近牧師として本当にそういうことに向き合うことが多くなったと思うことがあります。

高齢の方が病気になって、手術を受けられて、どんどん体が弱っていって、やがて死を迎える。去年まではあんなに元気だった人が、あっという間にそういうふうになってしまう、こういうことがあるのです。

そういうことを見て、私が思わされることは、生きることの空しさ、また私たちの命のはかなさ、ということです。これは高齢の方に限ったことではありません。たとえ、若い人であっても、いろいろな事件や事故、また病気で命を失うということがあります。私たちにとって簡単に理解することはできません。けれども、様々な形で私たちの命というのは失われていく訳です。

聖書の中にこういう言葉があります。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。」。私はこの言葉を見る時に、本当にそうだなあと思わされます。肉なる者、人間はみんな草に等しい。永らえたとしても、野の花のようなものだ、こう言われます。この私たちの命は、とてもはかないものです。また、とてももろい、そういうものです。この私の人生、命がいつ終わるのか、それは私にも分かりません。今日かもしれませんし、明日かもしれない。その可能性は否定できません。私たちの命には、いつか終わりがあります。私たちの生きる意味は、一体どこにあるというのでしょうか。

その中で聖書にはこう書かれています。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」。

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ、とここで言われています。この見えるものは、過ぎ去るもの、こう言われています。つまり、見えるものは一時的なものだ、というのです。見えるものは一時的なもの。たとえば、それは、私たちがこれまで築き上げてきた財産や名誉、またそれ以外でも何か私たちが自分の人生の希望、拠り所としそうなものです。

ただ、見えるものは、考えてみると、過ぎ去るものと言われるように、全部一時的なものです。見えるもので、いつまでも残り続けるもの、永遠のものは何一つありません。見えるものは、財産もそうですけれども、増えることもあれば、減ることもあります。とても不安定です。やがては、無くなったり滅びたりします。それは、私たちの命も同じなのです。いつかは必ず、この肉体も衰えます。病気があり、死を迎えることになります。見えるものはすべて、そういう一時的なものです。

その中で、聖書は私たちに、見えないものを見る、という生き方を教えているのです。それは、見えないものは、永遠に存続するからです、と聖書ではその理由が言われています。この見えないものは、何か私たちが厳しい修行をやって、功徳を積めば、ようやく見えるようになる、というものではありません。これは、私たちが求めさえすれば、与えられるものです。私たちが信じれば、誰でも見ることのできるものなのです。聖書の神は、こういう永遠のものを私たち一人一人に示しておられます。

では、この見えないもの、永遠のもの、一体何なのでしょうか。聖書が教えている、ただ一つの永遠のもの、それは永遠の命、と呼ばれるものです。私たちの地上の死で終わることがないという命、それこそ、聖書が私たちに約束している永遠のものです。私たちはただ自分の命のことをいろいろと心配したり悩んだり、ただ自分の地上の命に囚われるということではない。むしろ、私たちは神が示している命、永遠の命に目を注ぐ、こういう生き方を聖書は私たちに教えています。

永遠の命、聖書は単に私たちに都合の良い命のことを言っているのではありません。この永遠の命には、確かな根拠があります。イエス・キリスト御自身が、十字架の死から復活されたお方だ、という根拠です。永遠の命には、イエス・キリストという確かな基盤があります。

ですから、このイエスを信じるということ、ただこのことが、私たちに必要なことです。私たちがイエスを信じるということは、私たちがこのイエスの命に目を向けているということです。見えないものに目を向けています。そして、私もこの命に生きるということにつながるものです。そのために、イエスは十字架の死から復活されました。

イエスは、ただみんなが驚くような奇跡を自分がやってやろうと、そう思って復活されたのではありません。何よりも私たち一人一人のためです。私たちに御自分の命を得させるために、イエスは十字架の死から復活されました。聖書の神様の御心は、私たち一人一人が、イエスを信じてこの命を得る、というところにあります。これまで人生のいろいろなことに苦しみ悩んできたあなたも、もしイエスを信じるならば、誰でも命を得ることができます。このイエスを見るなら、その時あなたも確かに見えないもの、永遠のものに目を向けているのです。

どうかキリストの命を求めて、お近くの教会の礼拝にご出席ください。

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