主への賛美、最後の息にいたるまで

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聖書の言葉

息あるものはこぞって、主を賛美せよ。ハレルヤ。

旧約聖書 詩編 150編6節

赤石めぐみによるメッセージ

詩編は、聖書の真ん中にあって、全部で150の歌が収められています。

宗教改革者カルヴァンが詩編について、こう言っています。

「私はこの書物を、魂のあらゆる部分の解剖図と呼ぶのを常としてきた。なぜならば、あたかも鏡に映して見るようにその中で描写されていない人間の情念は、一つも存しないからである。」詩編には、私たちの喜びも悲しみも苦しみも、皆、言葉になって言い表されている、ということです。本当につらいときには、聖書の中でも、詩編の言葉しか読むことができなくなる、とおっしゃる方もあります。私たちの心のすべてを表現し、自分たちの心を代弁してくれているかのような詩編の言葉を読むと、私たちは慰められ、励まされます。

きょうは、最後の詩編である150編のことについてお話しさせていただこうと思いました。

最後の詩編には、もうあまり深い意味の言葉はなく、ひたすら「神を賛美せよ」「主を賛美せよ」「ハレルヤ」という言葉が繰り返されています。そして、たくさんの楽器が出てきます。わたしは長い間、この詩編を、最後の歌だから、オーケストラのような楽器編成と、大合唱で壮大に神さまをほめたたえて、締めくくりとしているんだな、と思っていました。

しかし、今年の春、この詩編150編について、新しい認識を与えられました。

今年2月29日(月)、城下忠司さんが天に召されました。城下さんは、この番組の制作に長年関わってこられ、ご自身も、年に数回、聖書からのメッセージを語ってくださっていました。城下さんのメッセージは、今もホームページで見、またお聞きになることができますし、有志の方によって小冊子にもまとめられています。

城下さんは、ご自分でもこのラジオ放送で語っておられましたが、肺癌でした。わたしは、夫である牧師とともに、最後の5日間、少しの時間ずつでしたが、毎日城下さんの病床を訪ねる機会を与えられました。この5日間、城下さんはもうお話しになることができませんでした。私たちの語りかけへの反応も、もう力がなく、かすかなものでした。しかし、私たちが賛美歌を枕元で歌ったとき、目をぐぅっと見開かれたのを、わたしは忘れることができません。

城下さんは歌うことがお好きでした。この番組でも、お好きな賛美歌や歌をいくつもご紹介くださいました。あのときも、ご一緒に歌っているおつもりであったのだろう、と思います。私たちが最後にお会いしたのは、息を引き取られる6,7時間前でした。そのときには酸素マスクに送られる酸素の量はめいっぱいに上げられていて、城下さんは、一生懸命息をしておいででした。苦しまれているようでもなく、規則正しいリズムで、息をしていらっしゃいました。

「息あるものはこぞって主を賛美せよ。」

城下さんの「息あるもの」としての最後の姿を目の当たりにして、わたしはこの詩編の言葉の意味が、新しくわかったような気がしたのでした。ああ、これは、本当に最後の最後に私たちが歌う賛美歌なんじゃないか。もう、言葉で歌えなくなるときがくる。そして、私たちが最後まで発することができるのは、息だけになる。しかしその息が、神さまによって、主への賛美として受け入れられるのです。人生最後の賛美歌が、詩編の最後にちゃんと用意されている・・・。

わたしは今まで、自分が息をしていること、「息あるもの」であることを、強くは意識していませんでした。しかし、城下さんのことをとおして、最後の息、ということを考えさせられてから、私たちは、実にいろんな息をしながら生きている、ということに気づかされました。

健康なとき、自分の息づかいについては気にもとめませんが、熱でうなされているとき、声が出なくなったとき、痛みを耐えるとき、激しい運動をして息が上がってしまってなかなか整わないとき、本番前の緊張で心臓が飛び出しそうになるのを押さえようとするとき、悲しくて悔しくて泣きじゃくってひっくひっくしてしまうとき、激しい怒りに打ち震えているとき、寒さ・暗さ・冷たさの中にあるとき、固唾(かたず)をのんで見守るとき、失望したとき、興奮しているとき、おかしくて笑いが止まらないとき、優しい気持ちのとき、いい香りをかいだとき、誰かとすぐ隣で歩いているとき、赤ちゃんのかわいい寝息・・・。

私たちは、生まれてから死ぬまで、本当にいろんな息をしているんだな、と気づかされました。そして、その息づかいのすべてを、神さまは知っておられるのです。なぜなら、その息を私たち一人一人に与えてくださったのが神さまだからです。息を与えてくださった神さまだからこそ、私たちのすべての息を、主への賛美と変えることがおできになります。つらい息づかいでさえも。私たちがそういう息をしているときに、神さまはこんなふうに語りかけてくださっているのではないでしょうか。

「その息を与えたのはわたしだよ。今のあなたのつらい状況を見るのではなくて、息ができていることに気づいてごらん。あなたは生きるんだよ。生きているんだよ。生きていれば、回復のチャンスがある。和解のチャンスがある。やり直しのチャンスもある。新たな挑戦もできる。本当に最後の息になってしまっても、わたしがそれを引き取るよ。あなたはわたしの手の中で、いつまでも生きるんだよ。」

あなたは今、どんな息をしていらっしゃいますか。どんな息をもってでもよいのです。皆、その息で、主を賛美することに招かれています。主を信じて、主とともに生きるなら、最後の息にいたるまで、主は私たちの息を賛美として受け取ってくださいます。

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