あなたの罪を赦すものはだれか
大野桂一
- 奈良教会 信徒説教者
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「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
新約聖書 ヨハネによる福音書 8章3~11節
本日のお話は、イエスが神殿の境内で民衆に教えておられると、そこにユダヤ教の掟を熱心に守る人々が、姦通の現場を捕えられた女を真ん中に立たせ、「先生、この女は姦通しているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」と聞いたことにより始まります。彼らの狙いは、女性の罪を定めることではなく、イエスを陥れることにありました。
神の掟を忠実に守る者だけが救われると考えているユダヤ教の指導者たちが、掟が守れず罪人として見下げている人々にも、イエスが救いを説いておられるので、イエスは神を冒瀆する輩であると、イエスがどちらに答えても訴えることの出来る、もろ刃の剣である袋小路の罠を仕掛けたのです。
ユダヤの掟は、姦通は重い罪で、石で打ち殺すという定めでした。でも、当時のユダヤは、ローマの支配下にあり、死刑を執行する権限はユダヤには無く、ローマにしかありません。
イエスが、石打の刑にせよと言われると、ローマの死刑執行権に反逆することになり、同時に、神は罪人をも赦して下さると教えているイエスの言葉と矛盾することになります。一方「石打にせずに赦せ」言われると、姦通は石打の刑で殺すというユダヤの掟を無視したかどで訴えることが出来ます。
彼らが答えを迫っても、イエスは、黙って地面に何か書かれていました。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは言われました。
8節「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」この言葉は、偽善と悪意に満ちた彼らの心を鋭く刺し通しました。
この計画を練った彼らだけでなく、その場の民衆も良心の痛みを感じて、年長者から初めて、一人一人と皆その場を去って行きました。
罪については、イエスの弟子たちも同じです。イエスが捕れられた時、弟子のユダがイエスを売り、筆頭弟子のペテロは、イエスの仲間だと言われると、三度もイエスを知らないと否定し、他の弟子は皆逃げ去りました。イエスに愛され弟子たちも、いざとなると、自分可愛さに、皆イエスの愛と信頼を裏切ったのです。
私達には、誰でも自分を一番大切にする自己中心のエゴの罪があるのです。このエゴが発展すると、他の人を無視し、自分を絶対化し始めます。
さて、その場に残ったのは女性とイエスだけとなりました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言います。誰もいなくなったので、女性の罪は赦されたのでしょうか。
そうではありません。女性の罪は残ったままです。女性は生涯、良心の呵責に苦しみ、世間からは罪ある者としてさげすまれ、日影の女として、心に平安のない淋しい人生を送らなければならないかもしれません。
誰も女性を罪に定めなかったという現実は、誰もこの女性を裁き、罰することの出来る者がいないということです。誰も裁くことの出来ないということは、逆にこの女性を赦し、救うことの出来る者はいないということです。
でも、その場には女性の傍らに、罪を犯したことのない人が一人残っていました。イエスです。「イエスは言われた。わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」ここで、なぜイエスは「あなたを罪に定めない」言うことが出来たのでしょうか。
ヨハネ3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とあります。
神は、自分自身の力による救いのない私たち人間を尚愛し、救いを与えるために、イエスをこの世に人として遣わし、この罪のないイエスに、人の罪を総て担わせ、私たちの身代わりとして、十字架に架けられたのです。
罪のないイエスは、姦通の女性の罪を身代りに引き受けて、十字架で死ぬことを覚悟しておられたからこそ、「あなたを罪に定めない」と言うことが出来たのです。
自分中心のエゴの罪を持つ私たちは、自分の力で、罪を赦される道はありません。自力による救いのない私たちを、神は尚愛し、独り子イエスを、この世に人として遣わし、私たちの罪を総てイエスに担わせ、十字架に架け、私たちの罪を処分されました。
この主イエスを信じる人は、誰であっても、イエスの十字架により私たちの罪は処分済みであり、私たちは罪赦された者、神の子供として、神と共に生きる新しい命、永遠の命を与えられるのです。