聖書からはじまる人生

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聖書の言葉

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。

新約聖書 テモテへの手紙二 3章15~17節

牧野信成によるメッセージ

「ありのままの自分でいい」という一つの価値観が近年、あちらこちらで宣伝されて来たのではないかと思います。無理をしない。そのままでいいんだ、という癒しのメッセージです。教会も例外ではありません。それは、自分を偽らないでよい、あるがままの自分を知り、そのままの命の尊厳が大切にされなくてはならないというのは、意味のあるメッセージであったように思います。けれども、今に至って、立ち止まって考え直してみるのですが、受け取り方を間違えれば、目先のことにしか関心が向かないそのままでよい、金持ちになって好きなものを手に入れたいと願う今のままでよい、他人のことまで考えていられない自分のままでよい、と何事においても自分を流されるままにしておくような、無気力な生き方にも通じかねないのではないか。ストレスからの解放を目的にして、心理学的な処方として「ありのまま」というメッセージが出て来たのでしょうけれども、自分の欲に忠実であることが率直で飾らない人のあり方として容認されるような、現代的な価値観に結びついてはいないかと考えます。

他方、教会で神の言葉として尊ばれている聖書は、私たちに全く異なる人生観を示してくれます。それは、「今だけ、金だけ、自分だけ」という自分の欲を中心にした世界観ではなく、一旦自分を突き放して外側から眺めるところの、神を中心にした人生観・世界観です。

聖書は、自分の欲に忠実に生きる人のあり様は、神を見失った人の生き方だと記します。もとより、人間は神によって創られた生き物です。すべての生き物が、他のすべてのものと一緒に神によって創られています。これは、一般の学校教育では私たちが学ぶことができないことです。私たちは一体、今自分が持っている人生観や世界観・価値観をどこから得ているでしょうか。よもや小中高と学んだ過程で自分に与えられて来た教科書にすべてが書いてあると思ってはいないと思います。しかし、案外そういうものかも知れないと学生たちと話していて思うこともあります。学校の教科書がその分野で扱われる基礎的な知識をもたらしてくれるのはその通りではあっても、それがいつも唯一真実な理解であるはずがないことは当然のはずです。

聖書から与えられる知識は、宗教色を教科書が与えてくれるものとは根本的に異なっています。科学的な一般論は別にしておいて、神という絶対者から観たところの人間のことが語られています。それによれば、神に創られた人間は、神が創った世界を大切に守って、与えられた命を喜んで生きていれば幸せであれたのに、自分の狭い了簡に従って、神から離れたことによって自ら死を招く結果となりました。「今だけ、金だけ、自分だけ」とはよく言ったものだと思いますが、聖書からすれば目新しい人間の姿ではありません。それはまさに、神を失った人間の罪深い生き様です。旧約聖書が書き記す、古代の世界に生きた人々は、そのようにして自分本位の欲によって神を失い、呪われた世界で災いに見舞われて、たびたび自ら滅びを招きました。

もちろん、聖書は、そのように滅び行く人間の姿を書き留めるだけの書物ではなく、そのような呪われた世界から人が如何に救われて、神との関係に立ち戻るかを主題としています。だからこそ、これは世界に広められねばならないと教会は命じられてもいるわけです。神は罪に染まった人間を御自身のもとへ回復し、初めに神がお創りになった人間本来の命をお与えになります。人間は神が創った道具ではありません。命のないモノでもありません。神が創った命は憐れみの対象です。神は御自身が創造なさった命を愛おしんでおられます。そこで、神は救い主をこの世界に送って、人間を取り戻す道を用意しました。私たちが聖書から学ぶのは、その、神による救いの道です。

私たちが自分の命を最後まで生き生きと、心から納得して生ききる方法は、イエス・キリストを信じて、聖書に学ぶことです。様々な宗教を横に並べて眺めてみても、色々な宗教を自分で試してみても、真理は決して見出されません。何故ならば、信仰を通じて知られる真理とは、神との出会いによるものだからです。真に意味のある人生を求めて神に向かうならば、神が私たちと出会ってくださいます。だからこそ、一見不合理に見える聖書が、神の言葉だと信じることができます。そうした求道が始まらなければ、神の真理は宗教的な観念に留まりますし、自分中心のものの見方を打ち壊されないと私たちは信じることができません。多くの人がキリスト教に近づきながら、それを信じることが出来ずに留まっているのは、実にその点です。自分中心のまま神を見出そうとしても駄目なのでして、神から見られている自分を発見しないと信仰は始まりません。その神の前に生かされている自分がわかれば、聖書が神の言葉として、私たちに迫ってきます。それがただの言葉ではなくて、私たちの生きる毎日に力を与えてくれることも真実になります。

「そのままでいい」「なにもしないでいい」とは、信仰に入る際の資格のことです。神は御自身を求めるすべての人間を快く迎えてくださるお方です。教会の門をくぐるのに知識が問われるわけではありませんし、社会的な地位や能力が求められる訳もありません。礼拝には誰しも自由に集うことができます。キリストを信じるならば、信じてからの自分の人生は神の恵みに対して開かれていて、聖書の言葉が生活の中に息づきます。なにもしないのではなくして、神に祈り、聖書に学び、礼拝に集う、生き生きとした信仰生活がそこから始まります。毎日が無力感の中に放置されることはありません。この混沌とした世の中で、何が善いことで何がそうでないかを見分けながら、自分が生きて行く道を選び取る力が与えられます。神と人とともに生きる、互いに愛し愛される関係の中で人生が支えられます。それが実らない信仰というものはありません。だから、私たちは多くの人をここに招きたいと願っています。

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