聖書の言葉
それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」
新約聖書 ルカによる福音書 18章6~7節
弓矢健児によるメッセージ
ルカによる福音書18章1節以下に、イエスが話された「不正な裁判官とやもめ」のたとえ話があります。古代社会では女性は男性に比べると様々な点で差別され、困難な状況に置かれていました。ですから、夫を失ったやもめが一人で生きることはとても大変なことでした。もちろん、今の社会でも、女性の権利が完全に守られているとは言えません。古代社会ではなおさらです。しかし、そうであるからこそ、本来、裁判官は、弱い立場にある者たちを弁護し、そのような者たちの権利が不当に侵害されないように、正しい法の裁きを行わなければなりません。
けれども、中には、弱い者や貧しい者の声を聞かないで、逆に強い者や富める者のために法を曲げ、裁判を歪めてしまう裁判官もいます。今の時代でもそうです。ですから、本日の箇所に出てくる、「神を畏れず、人を人とも思わない、不正な裁判官」というのは、何も聖書の時代だけの特別な存在ではありません。
しかしイエスはここで、単にそうした不正な裁判官を断罪しておられるのではありません。むしろ、そういう理不尽な現実、不公正な現実の中で、一人の弱く貧しい女性が、どのような態度で生きたのかということを教えておられます。そして、その姿を通して、わたしたちを励まそうとしておられるのです。
彼女は、この不正な裁判官の所に毎日通って、「相手を裁いて、自分を守ってください」と願いました。彼女はこの裁判官が「不正な裁判官」であることを知らなかったわけではありません。彼女もこの裁判官が、そんなに簡単に自分のような弱く貧しい女のために、裁判をしてくれるとは考えていなかったと思います。しかし、それでも彼女は諦めないで、毎日毎日、裁判官の所に行って訴えたのです。
時には彼女自身、不公平な現実に負けそうになったり、諦めそうになったりしたこともあったと思います。しかし、彼女は理不尽な現実に負けないで、最後までその現実と戦い、訴え続けたのです。
その結果どうなったのでしょうか。不正な裁判官は、彼女が毎日やって来てうるさいため、仕事にも差しさわるようになったのでしょう。彼は仕方がなく、彼女のために裁判を開くことを決めたのです。彼女の忍耐と熱心が、不可能に見えた重い裁判の扉を開いたのです。
この裁判の結果がどうなったかは、ここに記されていません。果たして、彼女が望んでいたような判決が出されたかどうかは分かりません。しかし、このたとえ話で大切なのは、裁判の結果ではありません。最後まで諦めずに、訴え続けた彼女の姿勢です。それが結果的に不正な裁判官の心を動かしたのです。
そして、イエスは、この世の不正な裁判官でさえそうである以上、真の裁き主である神は、神を信じる信仰者たちの熱心な祈りを聞かれないことなどあり得ない。神は必ず祈りを聞いてくださるとおっしゃったのです。
ルカによる福音書の18章1節を見ると、そもそもイエスが、このたとえ話をなさった目的は、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」であったと記されています。裏を返せば、わたしたちの人生には気を落としてしまうような試練や苦難があるということです。順調な時もあれば逆境の時もあります。イエスは、そのことをよくご存知でした。だからこそ、わたしたちを励ますために、このたとえ話をなさったのです。
神は決して不正な裁判官ではありません。神はイエス・キリストをこの世に遣わし、わたしたちに永遠の命を与えてくださるほどに、わたしたちを守り、愛してくださるお方です。旧約聖書の出エジプト記22章21節以下で神は、「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く」とおっしゃいました。神こそ正しい裁判官です。そうである以上、神が苦しむ者たちの心からの祈りを、訴えを聞かれないことなどあり得ません。
もちろん、わたしたちの祈りがいつ聞かれるのか、どのように聞かれるのかは分かりません。それは神のご計画の中にあります。すぐ聞いて欲しいと思っても、すぐには聞かれないこともあります。また、自分が期待していた形とは違う形で、祈りが聞かれることもあります。それでも、神は必ずあなたの祈りを聞いてくださいます。諦めずに声を出し、祈り続けて行きましょう。